経済・文化評論室

エコノミストであり、物語を愛するヲタクでもある。

アニメ アマガミSS

この記事では恋愛シミュレーションゲームアマガミ」のアニメ一期であるアマガミSSの感想について完結にメモしておきます(若干ネタバレ含む)。

まず、そもそもなぜとっくの昔に旬は過ぎ去ったと思われるアマガミのアニメを今見てるのかということですが、実は最近Youtubeで実況プレイ動画をチラ見して興味をもってPS Vita版を購入してプレイしてみたところ、面白過ぎてドハマりしてアニメのブルーレイボックスを購入して視聴するに至ったからです。

実は、僕は女の子たちの好感度を上げて攻略していく…というタイプのいわゆる恋愛シミュレーションゲームアマガミが初プレイなので他との比較は出来ないのですが、それでもアマガミは間違いなく傑作と思わされるほど面白いので、未プレイの方はぜひやってみてほしいところです。

ゲーム本編の感想を書いてもいいのですが、実はまだ中多さん以外の5ルートしかクリア(スキBESTエンド)しておらず、見てないイベントもたくさんあると思われるので、とりあえずアニメの感想にとどめます。なお、この記事ではメイン6ヒロインのエピソードが描かれた一期24話分だけの内容に基づいています。

 

さて、感想ですが、アニメのアマガミキャラごとのクオリティにバラつきが凄いというの率直なところです(そもそも、こういうゲームをいい感じにアニメに落とし込むのは尺の都合で非常に難しい…)。なので、キャラごとに出来がいいと思う順に序列をつけたいと思います。ちなみに、各キャラ30分アニメが4話ずつです。

 

1位 棚町薫

一番安心してみれたエピソード。 棚町さんの心情の変化もとても自然に思えました(4話で恋愛関係に持ってかなくてはいけない以上、過去からの知り合いという点は有利ですよね)。たったアニメ4話では原作のイベント全てを描写するのは不可能なわけですが、その取捨選択や改編も絶妙で、全体として説得的な脚本になっていたと思います。

 

2位 絢辻詞

原作より絢辻さんが可愛いと思えた。これは個人的に原作の立ち絵が微妙だと思ったからかも知れない…。絢辻さんの心の動きもそんなに違和感なし。原作の重要イベントをちゃんといい感じに配置してます。最後の二人だけでクリスマスツリーをみる演出も良いですね。

 

3位 中多紗江

原作未攻略なので再現度はわからないのですが、初見で見てそんなに悪くないと思った。初心な紗江ちゃんにつけこんで色々するというストーリーそのものがどうなのか、あるいはそんな主人公の人間性はどうなのかという問題はありますが…、ちゃんと中多さんは可愛いし二人が幸せならそれで良いのでは?あと、他の5ルートと違って演出が独特でしたが、それも悪くなかったです。

 

4位 七咲逢

正直なところ、七咲編は中立的に評価できる気がしません。 なぜなら、原作では個人的には七咲がぶっちぎりで好きなので、どれだけアニメのクオリティが高くても僕自身が満足することはないと思うからです。原作では、七咲ルートは非常に印象的な良いエピソードが満載であり、それをアニメ4話に全て詰め込むことは土台無理なのはわかっています。しかしながら、アニメに対して、そのエピソードをいれるならこちらを入れたらいいのでは…とか、時系列的にそういう流れにしてしまうのか…とか、もうちょっと原作の流れに即してほしい…とか、その心情変化は不自然なのでは…という不満を持ってしまうことも事実で、どうしても上位ランクに入れることは出来ません。ただ、僕だけの願望を本心から言ってしまえば、原作になるべく忠実に七咲だけで1クールやってほしいぐらいの要求になってしまうので、冒頭述べた通り、この評価が中立的かどうかはもはや僕にはわかりませんが…。まあ、七咲ブランコがみれたりとか、七咲温泉がみれたりとか、それだけで僕はとても嬉しかったということは付言しておきます。

 

5位 桜井梨穂子

正直最後まで見て驚いたのですが、これ大丈夫なんですか?6ヒロインの中で唯一、恋人にならないエンドでビビりました。これ、原作の桜井ファンの人怒るのでは…。正直なところ原作からして、キャラは良いのにいまいち印象的なイベントがないなあという感想を持っていたのですが、アニメ編は最終的に恋人にすらならないので、輪をかけて盛り上がる場所がない…という印象でした。

 

6位 森島はるか

うーん、ちょっと残念ですね。原作の森島先輩編はとてもよかったです。追われる立場だった森島先輩が、主人公を追う立場になり、それにより生まれる葛藤…みたいストーリーがそれなりに説得力があったからです。しかし、アニメではその流れがうまく描かれているとは思えず、森島先輩の心の動きがかなり不自然に思えてしまいました。また、原作から森島先輩はエキセントリックなキャラクターでしたが、彼女の行動の一つ一つは森島先輩のパーソナリティを踏まえると必然性があるように思えました。しかし、アニメでは彼女のパーソナリティが十分描かれておらず、単に異常な行動をする人みたいになっていたのも残念でした…。

 

順位に異論は認める。

まあ、上でごちゃごちゃ書きましたが、原作ファンとしては動いてるキャラクター達をみるだけで嬉しいので正直脚本がアレでも全然構わないんですけどね。

個人的にな意見としては、原作未プレイの人はアニメを視ずにまずは原作をやってほしい。ある程度原作をやり込んだら原作の感想も書きたいと思います。

 

以上

「である/する」論法の応用例:「パンツ・ビキニ問題」に関する一考察

何かを論評する人間にとって最も重要なことの一つは、いかに多くの二項対立の軸が頭に入っているかということだと思います。「私的/公的」、「長期/短期」、「仮想/現実」、、、などなど、なんでもよいのですが、何かを論じるにあたって、これらの二項対立軸を用いて事象を整理することは非常に重要です。場合によっては、単に二項対立の概念に沿って分類するだけで何かを論じた雰囲気を醸し出すこともできます。

そんな中で、僕が昨日の↓この記事で紹介した、丸山眞男の「『である』ことと『する』こと」に登場する「である/する」という軸は、非常に強力な二項対立構造のうちの一つです。

今回の記事では、この二項対立がいかに強力か、ということを示すために、着衣のハードプロブレムの一つとして知られる「パンツ・ビキニ問題」に対して、「である/する」論法を用いてアタックしてみたいと思います。

 

そもそも「パンツ・ビキニ問題」とは何でしょうか。注意していただきたいのは、ここでいうパンツとは、ズボンのことではなく、他の言い方ではショーツやパンティと呼ばれるものです。「パンツ・ビキニ問題」とは、「女性はビキニ姿をみられることには抵抗がないのに、同じ形状をしているパンツをはいてる姿をみられるのは嫌がる」という問題のことであり、しばしば男性からは批判的な文脈で論じられます。この記事では便宜上、「『ビキニ姿をみられてもいいのにパンツ姿をみられるのは恥ずかしい』は正しい」とする立場を女性側、「『~』はおかしい」とする立場を男性側と表記します。僕はこの記事では、「女性側の主張が正しい」という結論を「である/する」論法を用いて簡単に示してみたいと思います。

さて、この「パンツ・ビキニ問題」を「である/する」の文脈で眺めてみるとどのように解釈できるでしょうか。パンツ姿を嫌がる女性側の立場にたって考えると、彼女にとっては、着ているものがビキニであるかパンツであるかが重要なのであって、その衣服の機能*1の問題ではないということがわかります(「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」という有名な命題についても併せて参照)。つまり、この問題に関して女性側は「である 」価値観に基づいて価値判断をしていることになります。一方で、「ビキニは恥ずかしがらないのに、パンツを恥ずかしがるのはおかしい!」という男性側の立場はどうでしょうか。彼は、股間を外部から遮蔽するというビキニ・パンツ共通の役割・機能にのみ着目して価値判断を行っていることがわかります。すなわち、この問題に関して男性側は「する」価値観に基づいて価値判断をしていることになります。これで見えてくる通り、実は「パンツ・ビキニ問題」に関する男女間の対立は、本質的には「である」価値観と「する」価値観の対立なのです。

では男女どちらの主張に分があると言えるでしょうか?それを考えるにあたっては、この問題に関して、「である」価値観と「する」価値観のどちらが適用されるべきか、という問題に帰着します。結論から申し上げると、本件に関しては「である」価値観に基づいて判断されるのが適当だと考えられます。なぜならば、一般に着衣に関しては相応に「である」価値観に基づいて価値判断が行われており、「パンツ・ビキニ問題」に関してのみ「する」価値観だけで判断するのは無理筋だからです。現実に着衣に関して「である」価値観が浸透している具体例を挙げていきましょう。例えば、スカートの着用についてです。ごく一部の国や地域を除いて、スカートを履いて良いかどうかは女子であるかどうかに決定的に依存します。他にも例はいくらでも挙げられます。例えば真夏の営業マンを想像してください。彼らは35℃の気温でも、機能面を度外視して背広にネクタイを着用して営業に出かけます。これもまた、実用的な意味とは全く別のところで、彼らが営業する側であるからとか、背広にネクタイが正装であるといった「である」価値観に基づいて行われている行為です。以上ように、着衣のあり方については、一般的に「である」価値観が幅広く浸透している中で、「パンツ・ビキニ問題」に対して「する」価値観のみを用いて価値判断を行おうとする男性側の主張は、退けられてしまうという結論になります。

 

いかがでしょうか。このように、一見ハードプロブレムと思われる「パンツ・ビキニ問題」に関しても、「である/する」という二項対立を持ち込むことで、ある程度見通しがつくことがお分かり頂けたかと思います。これを読んで頂いた方にもぜひ、「である/する」の二項対立を思考の整理のお役に立てて頂ければ幸いです。

 

以上

 

*1:パンツとビキニの機能が同じだと思ってるとか、童貞乙!と思われそうな感じもありますが、とりあえず議論の単純化のために両者の機能は同じだと仮定させて下さい。

未熟な日本社会~あるいは、なぜ日本のサラリーマンは息苦しいのか~

ネットでまことしやかに囁かれる噂として、日本企業(特に銀行)では、稟議書に判を押す際に、上司への敬意を表すために判を傾けて押すというものがあります。幸いなことに僕が勤めてきた会社にはそのような風習はありませんでしたので、この噂の真偽は一次情報としてはわかりませんが、グーグルで検索してみると、このような風習があると証言している銀行員の方のブログもあるので、恐らく会社によっては実際に行われていることなのだと思われます。

この慣習は、ある意味で日本社会の未熟な部分を象徴しているので、個人的には印象的なエピソードです。なぜこのような慣習が生み出されてしまうのか。この記事では、分析のフレームワークとして、皆さんも高校時代の現国で習ったであろう丸山眞男の「『である』ことと『する』こと」の考え方を用いて見ていきたいと思います。

「である/する」という二項対立について、簡単に復習しましょう。この2つは互いに対になる価値観です。まず「である」価値観というのは、その人物が何者であるかというものを重視する価値観であり、言い換えれば、地位や身分(to be or not to be)に重きを置くことを指します。一方で、「する」価値観というのは、その人物が何をするのかを重視する価値観であり、言い換えれば、役割や機能(to do or not to do)に重きを置くことを指します。丸山の文章中の例で言えば、徳川幕府においては、支配者である大名や武士は、人民に対するサービスをすることではなく、大名や武士であるという身分そのものが支配者たる根拠となっているため、「である」価値観の社会であると言えます。あるいは、もう少し身近な例を挙げるとすれば、高校の野球部について考えてみましょう。もしこの部活のレギュラーが、高学年であるというだけで優先的に選出されるとしたら、この部は「である」価値観の社会であると言えます。一方で、学年とは無関係に、試合で活躍するかどうかに基づいてレギュラーが選出されるとしたら、この部は「する」価値観の社会であると言えます。これらの例からもわかる通り、「である/する」という二項対立は封建制儒教道徳とも関連を持ちます。

さて、このフレームワークを日本の企業文化に当てはめてみるとどうでしょう。その前に、そもそも企業というものは、「である/する」で言えば、どちらの価値観に則るべきものでしょうか?これは自明ではありますが、赤の他人同士で何かをする目的のため(企業であれば業績の最大化等)に取り結ばれた関係ですので、する価値観に基づくのが当然でしょう。その目的を達成するために、組織内部の立場や役割は細分化していきますが、その中で生じる、上司やリーダーといった役割は、あくまで目的を達成するための機能であり、大名や士農工商といった身分とは異なるものです。丸山も文章中で述べていることですが、上司やリーダーといった存在は、上司であることそのものによって良い業績を達成することによって価値を判断されるべきものです。そして、彼らが上司やリーダーであるのは、その職場における機能や役割においてのみであり、機能や役割を離れた面においては部下とも人間としては対等であるはずです。機能や役割を離れる、というものの最たる例を挙げると、職場を離れた日常生活においては上司も部下も対等であるのは当然です。

しかしながら、日本の企業において、役職は多かれ少なかれ身分化しています。言い換えるならば、日本の企業においては、企業という「する」価値感に基づくべき組織に「である」価値観が強く根差しているキメラ的な状況に陥ってると言えるでしょう。その具体例の一つとして、ようやくここで冒頭に述べた斜め判の話に戻ります。果たして、稟議書に斜めに判を押すことには、何か機能上の意味が存在するのでしょうか*1。言い換えるならば、斜め判というルールは「する」価値観に基づくものなのでしょうか?ここまで読んで頂いた方にはお分かりのように、斜め伴は、「する」価値観ではなく「である」価値観に基づく決め事です。すなわち、斜め伴によって表明されているのは、上司であることに対する敬意であり、この事象は、上司であることが身分化していることの証左に他ならないのです。もう一つわかりやすい例を挙げましょう。仕事終わりに上司と部下でちょっと居酒屋にでも行こうと言う場面。部下は上司のために注文をしたり、上司にお酌をしたりするのは普通の光景です。しかし、これも、上司がであることが身分化していることを示す良い例でしょう。先ほど述べた通り、上司というのはあくまで機能であり、目的組織の中でのみ有効なフィクションです。にもかかわらず、日本社会においては、まるで人間としての上下かの様に、機能を離れた場面においても地位関係を規定するのです。また、少し脇道にそれますが、日本企業に根付く「である」価値観の好例として、年功序列制についても触れておきましょう。ここまで読まれた方にはもうお分かりのことと思いますが、「〇年入社である」ことのみを価値基準の判断とする年功序列制は、「である」価値観そのもです。

このように、日本では、本来「する」価値観に基づくべき企業において、「である」価値観が至るところに根を張り巡らせていることがわかりました*2。個人的には、このようなキメラ的状況が生み出す様々なひずみや矛盾が、日本のサラリーマンを息苦しくしている諸悪の根源であると考えています。

さて、丸山は文章中で、中世(ハムレットの時代)は「である」価値観が最大の関心事であった一方で、自由や民主主義に基づく近代は「する」価値観の社会であると整理しています。日本は(少なくとも企業文化という面に限れば)この意味において中世であり、仮に中世よりも近代を成熟した社会とするならば、表題の通り日本は相対的に未熟な社会であると言えるでしょう。日本社会よ、そろそろ「人間同士は本質的に対等である」という近代的価値観を受け入れてみてはどうだろうか?

 

以上

 

p.s. 

「である/する」という二項対立は他にも応用出来ます。最近では、倒れた市長に救命活動をするために女性が土俵に上がった際、「女性は土俵に上がるな」とアナウンスされた事件がありましたが、これは「である/する」の対立の例の一つです。すなわち、女性である、ことを以って土俵に上がることを禁ずるのか、救命活動をする、ことを以って土俵に上がることを許すのかという対立です。私の個人的な印象では、さすがにこの件に関しては土俵に上げることを許した方が良いと思います。ただし、一般論としては、文化や伝統といったものは、企業活動と違って本質的に「である」価値観に基づくべきものであるため、安易に「する」価値観を持ち込むべきではない、という側面もあります。

*1:判の傾き具合で賛成度合いを表明するという意味不明な議論もありますがここでは捨象しています。

*2:なぜこのようになってしまったかは、丸山眞男の文章に近代化の失敗として論じられてるので興味があれば読んでみて下さい。

宇宙よりも遠い場所

Crunchyrollで宇宙よりも遠い場所を一気に視ました。結論から言うと、良いアニメを視たな…って感じです。この物語を一言でいうと、「女子高生が南極に行って帰ってくる物語」です。この、行って帰ってくる物語というのはあらゆる物語の構造の中でも基本中の基本で、王道とも呼べるものです。この、極めてシンプルかつ王道の物語を丁寧に描いたのが当作品です。

 

まず最初に思った良い点は、主人公たちが抱える葛藤や問題に違和感が少ない点。一般に、登場人物のトラウマや葛藤を何らかの方法で解消していく、というのは物語のごく基本的な構造ですが、下手をするととってつけたようなトラウマが描かれてしまったり、または登場人物の考え方の一貫性が欠けてしまったりと、これを自然にこなせている物語は案外少ないものです(具体的な作品名は挙げませんが…)。一方でこのアニメでは、登場人物たちの葛藤は説得力がありますし、多かれ少なかれ共感できるものばかりです。新しいことをしようとしても失敗を恐れて出来ない玉木マリ。母親を失うという大きな問題から一歩踏み出せずにいる小淵沢報瀬(変換できない)。集団での人間関係に失望している三宅日向。友人関係というものを解せずにいる白石結月。また、全部列挙はしませんが、この4人以外のキャラも良いです。例えば、主人公の幼馴染の高橋めぐみは、自分に依存していると思っていた玉木マリが新しい一歩を踏み出そうとすることに苛立つわけですが、この心境も個人的にはとても共感できるものです。

 

次に良いと思った点は、視聴者を泣かせるための演出にこだわっているという点です。もしかすると泣きの演出が過剰だという向きもあるかもしれませんが、個人的にこの作品の演出はギリギリ臭くなり過ぎない良いラインをついてると思いました。人によって泣きポイントは様々かと思います。この作品は玉木マリをはじめとして登場人物たちが良く泣くので、つられて泣いてしまう人も多いでしょう。ただ、個人的にはそれよりも、彼らの考え方が動いた瞬間、別の言葉で言えばトラウマや囚われていたことから少し踏み出せた瞬間に泣かされてしまいました。これも、先ほど述べた通り彼らの葛藤に説得力があるからです。具体的にシーンを一つを挙げるとすれば、南極行きの船で最初に主人公たち4人が挨拶するときの、小淵沢報瀬の挨拶です。母親の喪失というのは当人にとって非常に影響の大きい問題であり、3年たとうが何年たとうが乗り越えられる様なものではありません。ましてや母を失った地である南極行きの船で、報瀬が前を向くことが出来ないのも仕方のないことです。しかし、出会ったかけがえのない親友たちに背中を押され、前を向いてスピーチをする報瀬。ともすれば、この時点ではこれはまだ単なる虚勢でしかなく、ある意味このスピーチは悲壮で痛々しくもあります。でも確かにそこには、一歩踏み出そうとする意思が芽生えていて、それゆえに泣かせるシーンとなっているのです。

 

そして僕が何より良いと思ったのが、劇伴が最高だという点です。これはずるいというかえげつない。曲自体も良いし、曲を使った演出も良い。ていうか、物語の終盤で流れるアコギ主体のあの歌モノ。あれがずる過ぎる。だいたいあの曲が入ってくる演出で泣かされたようなものでしょ?

 

このアニメには凄い力を持ったヒーローもヒロインもいません。年相応っぽい高校生4人がいるだけです。彼らはそれぞれ何か欠落していますが、お互いそれを補い合うことが出来ます。こういう、基本的なことをきっちりと丁寧に描き切ってる良いアニメです。

とりあえず未視聴の方には強くお勧めできます。

 

以上

 

景気が良い悪いの基準とは(潜在成長率と需給ギャップについて)

先月末の予算委員会での安倍首相の発言を見てみましょう。

はえ~、アベノミクスの成果であるところの景気回復の波が全国に広がってるんだナァ……っていやまてまて、全然実感ねーぞ!そう思う方も多いでしょう。もうちょっとフォーマルに政府の公式見解を見てみましょう。内閣府の月例経済報告によると、

景気は、緩やかに回復している。

 ついでに日銀の展望レポートもみてみると、

わが国の景気は、所得から支出への前向きの循環メカニズムが働くもとで、緩やかに拡大している。

なーんだ、日本経済は拡大しているんだ!これで一安心ですな。

……

おいいいいぃぃぃ!!こんなん大本営発表じゃねーか!(銀魂風の突っ込み)

いやいや、そうではないのです。実は彼らは明確な基準を持って景気の判断をしております。この記事では、世のエコノミストたちの景気の良し悪しの判断基準について紐解いて行こうと思います。

 

最初に、彼らは多くのマクロ統計データをもとに景気を判断していますが、景気判断の究極的なよりどころはGDP統計です。念のため簡単におさらいしましょう。GDP統計を一言でいうと、ある期間に国内で生み出された価値の総和であり、同時に需要され、支出された価値の総和でもあります*1。例えば100万円の自動車を年間3台生産するだけの経済なら、GDPは300万円です(生産側GDP300万円)。これを支出側からみたときに、家計が1台、政府が1台、企業が1台それぞれ購入したとすれば、GDPの支出側項目では個人消費100万円、政府支出100万円、設備投資100万円と計上されます(支出側の合計も当然300万円)。ちなみにGDPを支出側項目で切り分けると GDP個人消費+住宅投資+政府支出+設備投資+在庫投資+輸出-輸入 となります。

 言ってしまえば、GDP統計の数字が良ければ景気が良くて、悪ければ景気が悪いのです。でも、良い悪いは相対的な概念ですので、何らかの基準が必要となります。そこで登場するのが、潜在GDP需給ギャップという概念です。順に説明します。

 まずは潜在GDPです。これは、経済が無理せず、かといって落ち込むこともなく産出できる平均的なGDPの水準のことです*2。言い方を変えれば、その国の本来の実力のGDPとも言えます。潜在GDPを規定するものは3つで、その国の技術水準と、労働力人口と、資本の量です。ここでいう資本は、金融的な意味ではなく工場設備などの物理的な資本をとりあえずイメージして下さい。単純な話で、人がたくさんいたり、設備がたくさんあったり、技術水準が高ければたくさん産出できるということです。なお、この3つの要素は、基本的には短期的に大きく変化することはありません。なので、潜在GDPも基本的には緩やかにしか変化しません。

ここで注意して頂きたいのは、潜在GDP供給側(供給能力)の話であるということです。すなわち、「うちらはこれだけ生産できまっせ~!」という生産能力に関する水準であって、現実のGDPは、需要側の要因で変動します。例えば消費者が日本の将来に絶望して消費を一斉に控えることがあれば、いかに工場がたくさんあって供給体制が万全だとしても、需要がなくなるということなので、実現するGDP(需要)は潜在GDP(供給)を下回ることがありえます。逆に、東京オリンピックを前に消費者たちのマインドが突然楽天的になって支出を増加させれば、逆に実現するGDP(需要)は潜在GDP(供給)を上回ることがありえます。この場合、労働量を増やしたり資本の量を増やして生産が追いつくようにしなくてはいけませんが、それは例えば新しい従業員を雇い入れたり残業を増やしたり、工場の稼働率を高めたりして達成するのです。実現するGDPは短期的には色々なショックによって変動しますが、潜在GDPを大きく乖離して変化することはないと考えられています。

さて、もしかしたらカンの良い方はすでに気付いているかもしれません。実はこの需要側(実際のGDP)と供給側(潜在GDP)の差こそが需給ギャップです(需給ギャップ=実際のGDP-潜在GDP)。需給ギャップがマイナスといったときは、実際のGDP<潜在GDPとなっている状態を指します。すなわち、「うちらこんだけ生産できるのに…みんなが買ってくれへんねん」という状態です。逆に、実際のGDP>潜在GDPの場合は需給ギャップがプラスです。これは、「なんか注文が殺到してまんねん。徹夜の増産体制でうれしい悲鳴ですわ!」という状態を指します。そして、この需給ギャップこそが景気の良し悪しの基準となるのです。非常にざっくりと言ってしまえば、需給ギャップが正ならば景気が良く、需給ギャップが負なら景気が悪いと言えます(図1を参照)。

(図1)

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なお、図1の通り、景気は基本的に好景気と不景気を循環するものであると考えられています。実際のGDPは潜在GDPの上下をうろうろしながら推移していくのです。

さて、実際のエコノミストたちは、GDPの水準だけではなく変化の方向を重視します。なので、需給ギャップの水準とGDPの変化の方向感を合わせて、それぞれの経済状況に対して図2のような表現を与えています(こちらの表現は日本銀行の資料を参考にしました)。

(図2)

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では、以上の知識をもとに政府の景気認識を読み解いてみましょう。まず内閣府の「景気は、緩やかに回復している。」という表現ですが、彼らは足元の景気の説明に対して「回復」という表現を用いています。これは、図2からわかる通り、需給ギャップはゼロ近傍で、方向としては需給ギャップが負の状態(不景気)から正の状態(好景気)に徐々に移り変わりつつある状態を指します。お気づきの通り、「回復」という表現の背景には、その前の状態が「悪い」状態であるという前提があるのです。ちなみにこの「回復」という表現ですが、内閣府は2014年1月から使用しています(「持ち直し」から「回復」への移行期間を含めると2013年7月から)。皆さんからすると、政府の景気判断を日経新聞等で見るにつけ、「こいついつも回復してるな」という感想を持たれるかもしれませんが、これは政府に都合の良いだけの大本営発表というよりはむしろ、なかなか次の「拡大」のフェイズに移行できず、需給ギャップゼロ近傍でうろついているもどかしい景気展開なのです。

ところで、内閣府は彼らの算出した需給ギャップを公表していますので、実際にデータを見てみましょう(図3)。これをみるとたしかに、消費増税による大きなフレを除いてみれば、13年半ば以降需給ギャップはゼロ近傍で推移しており、彼らの「回復」という表現と整合的であることがわかります。ただ、ごく足元では需給ギャップがようやく正方向に移ってきており、そろそろ「拡大」という表現に切り替えていくものと思われます。

 (図3)

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続いて、日本銀行の「わが国の景気は、(中略)緩やかに拡大している。」という判断を検証しましょう。この拡大という表現は、図2で見たとおり。「回復」という表現の一歩先の「拡大」という表現を用いています。すなわち彼らはすでに需給ギャップが正の好景気のフェイズに入っているというのです。日本銀行需給ギャップを公表していますので、さっそく見てみましょう(図4)。確かに彼らの産出によると、16年半ばには需給ギャップがゼロ近傍から乖離し、力強く正領域へと伸びていっています。これまた彼らの判断は、彼らの需給ギャップと整合的です。

 (図4)

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政府と日銀で景気判断が若干異なるのはなぜでしょうか?それは、需給ギャップの産出には潜在GDPが必要ですが、それそのものは直接観測することが出来ないので、何らかの方法で推計することが必要になるからです。潜在GDPの推計手法の違いから、政府と日銀の間で需給ギャップに差異が生じるのです(政府と日銀の間の景気認識がずれてていいのかという謎は残りますが、まぁ中央銀行の独立性という奴でしょう)。

いずれにせよ、この記事の当初の疑問であった「景気が良い悪いの基準は何なのか」という問いに対する回答は以上の通りであり、結論から言えば「需給ギャップ」です。とりあえずこれを見る限り、政府のエコノミストは単に大本営発表をしているわけではなさそうです。

 

…というわけでここで記事を終了してもいいのですが、せっかく潜在GDP需給ギャップという概念に触れたので、ついでにこれらと関連することをいくつか付言しておきましょう。

まず、潜在GDP需給ギャップという概念がら、経済成長における長期要因と短期要因というものを分類してみましょう。先ほどから申し上げている通り、需給ギャップは実際のGDPと潜在GDPの差なので、実際のGDP=潜在GDP需給ギャップと表すことが出来ます。こう見ると、実際のGDPは供給要因(潜在GDP)と需要要因(需給ギャップ)の和であることがわかります。先ほど少し触れた通り、実際のGDPは図1の様に、潜在GDPの周りをうろうろしながら推移していき、そこから大きく離れることはありません。なので、長い目で見たときのGDPの成長率は、潜在GDPに規定されることになります。おさらいすると、潜在GDPは技術水準と労働人口と資本の量によって決まるのでした。つまり、長い目でみたときの経済成長は、これらの3つの要因に規定されるのです。これらは、経済成長における長期要因であると言えます(構造要因とも言います)。一方で、需給ギャップに働きかける要因は短期要因です(循環要因とも言います)。例えば消費者マインドの悪化による個人消費需要の低下や金利低下による設備投資需要の増加などがそうです。理解の助けのためにここで短期要因と長期要因を含めて、対応する概念を次の様に整理しておきましょう。

潜在GDP⇔供給要因⇔長期要因⇔構造要因

需給ギャップ⇔需要要因⇔短期要因⇔循環要因

以上の知識の応用例として、当初のアベノミクスの3本の矢を、それぞれ短期要因に働きかける政策と、長期要因に働きかける政策に分類してみましょう。2013年当初のアベノミクス3本の矢とは、①大胆な金融政策、②機動的な財政政策、③成長戦略、の3つです。まず、①の金融政策は、基本的には金利を引き下げて、企業の設備投資や個人消費を喚起する政策ですので、需要に働きかける政策の筆頭です。ゆえに、これは短期要因に働きかける政策に分類できます。ただし、一般論としてはこうですが、アベノミクスの金融政策は金利引き下げではなく、量的質的金融緩和と呼ばれる別の政策手法ですのでご留意ください(需要に働きかける政策であることに変わりはない)。これについてはいずれまた記事にします。次に②の財政政策ですが、これは政府が自ら需要を作り出す政策です。一時的に需要を自ら増加させる政策ですので、こちらも需要要因⇔短期要因に働きかける政策です。最後の③の成長戦略ですが、これは具体的には規制緩和等が含まれる政策ですが、実はエコノミストたちが技術水準と呼ぶものに働きかける政策です。技術水準はどこに含まれていましたでしょうか?そうです。潜在GDPですね。つまり、成長戦略は潜在GDPを高める政策⇔長期要因に働きかける政策なのです。この様に政府は、短期的な経済回復と長期的な成長率の向上の両方を企図してアベノミクスを行ったわけです(アベノミクスに関する反省はまた別の記事で)。

ちなみに、さらに短期・長期の切り分けの応用をもう一つ。例えば、こんな主張があったとします:「景気が悪いのは、高齢化で働く人が減ってるからだ」。この文章は正しいでしょうか?完全に揚げ足取りになりますが、実はこの文章はおかしいのです。なぜなら、先ほど述べている通り、景気の良し悪いの基準は需給ギャップですが、労働力人口の低下は潜在GDPには影響するものの、需給ギャップには影響しませんので、景気とは無関係なのです。むしろ、実際のGDPが一定だとすれば、労働力人口が低下して潜在GDPが下がれば需給ギャップは改善する(プラス方向に動く)のです。なので先ほどの主張は、長期要因・短期要因(構造要因・循環要因)といった風に、経済成長に与える要因が頭の中で整理できていない可能性が高いです。でも、喜々としてそんなことを指摘してもウザがられるだけなのでやめましょう。先ほどの文章も素朴な意味で「景気」という言葉を使っているだけなので、言いたいことは何となくわかりますからね。

 

最後にもう一つ、 潜在GDP需給ギャップという概念を用いて、「景気が良いときになぜ物価と賃金と金利は上がるのか」ということについて理解を深めて終わります。景気が良い状態というのは何度も言ってるとおり経済全体でみて需要>供給となっている状態です。まず、物価についてざっくりと言ってしまえば、需要が供給以上に強いから上がる、という非常に単純な仕組みです。フィリップスカーブというものをご存知でしょうか。縦軸にインフレ率、横軸に需給ギャップ(もとは失業率ですがほぼ同じ意味です)をとったものですが、これは端的に今申し上げた関係を図にしたものです。賃金と金利はどうでしょう。これも何度も言ってきた通り、潜在GDP=供給量は、技術水準と労働力人口と資本の量で決まりました。技術水準を不変とすれば、景気が良い⇔需給ギャップが正⇔需要>供給となっている状態では、需要を満たすために労働と資本が足りてない状態になるわけです。なので、労働を確保するために賃金が引き上げられ、資本を確保するために(設備投資を行うために)資金を確保する需要が高まるため金利が上昇するのです(こうしてかいてみると当たり前ですね)。

 

本当は景気実感と景気判断の乖離についてまで書こうと思いましたが、だいぶ長くなったのでそれはまた別の記事で。

 

以上

*1:更に言うと分配された所得の総和でもあります=生産・支出・分配の三面等価

*2:潜在GDPは、供給能力を最大限使用した場合の産出量として定義される場合もありますが(最大概念)、ここでは平均概念を採用しています。

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い12巻と物語論

とりあえず最高。重要エピソード満載。わたもてにおいてこれ以上の巻が出せるのか?感があります。わたモテ読んだことない人は、6巻あたりからでもいいのでとりあえず一気に12巻まで読んでほしい。以下、感想等を、物語論を絡めつつメモ。

 

個人的にはわたもてにおいて重要なキャラクターは、根本陽菜(以下ネモ)と田村ゆり(以下ゆりちゃん)だと思っています。というのは、二人は主人公であるもこっちの影だからです。ここでいう影とは、主人公にあり得た別の自己実現の在り方です。主人公とは、基本的には物語で最も変化する人間のことであり、登場人物の重要度は物語においてどれだけ変化するかにおおよそ比例すると言ってよいです。そんな中で、主人公(あるいは登場人物)に最も大きな変化を与えるものは、主人公と影の相克、言い方を変えれば、自己に内在する対立する価値観との葛藤です。例えば、善悪二元論的な世界観では、善(主人公)が悪(影)を超克することで、主人公が成長するというパターンがあります。また、どちらが善・悪という明確な価値観があるわけではなく、互いの要素が弁証法的に止揚することで、お互いに成長をもたらすというパターンもあります。

主人公の影の典型的な例としては、ルークスカイウォーカーに対するダースベイダーがあげられます。父であるダースベイダーは、主人公のルークと遺伝子を共有するレベルで同じ背景を持つ存在であり、ルークにあり得たもう一つの自己実現の姿です。ルークはダースベイダーと相対したとき、自身もダークサイドに落ちつつあることに気付くわけですが、最後にはそれに打ち勝ちます(さらにはダースベイダーをアナキンスカイウォーカーに戻すという変化すら与えます)。この物語の構造は、一見するとダースベイダーとルークの戦いの様に見えますが、本質的にはルークの内側にあるダークサイドが、ダースベイダーという影として外部化されているのであって、実は主人公の自己のうちに内在する二つの価値観の相克なのです。

さて、話をわたもてに戻しましょう。ネモとゆりちゃんは、どういう意味においてもこっちの影なのでしょうか。まずネモです。ネモはアニメ好き声優を目指しているという、陰気なヲタク趣味という性質をもこっちと共有しています。しかし、ネモはそれをひた隠しにして、空気を読みながらリア充グループに所属しています。一方でもこっちは、周囲の目を意に介さないので、ヲタク趣味を隠していませんし、空気も読みません。その結果、ぼっちではあるものの、比較的自由気ままな高校生活を送っています。これでお分かりの通り、ヲタク趣味という共通項を持ちつつも、学校社会への適応の仕方という軸で二人は二項対立となっており、この意味においてネモはもこっちの影なのです。

では、ゆりちゃんはどうなのでしょうか。ゆりちゃんは社交性に乏しく、空気を読まないという意味でもこっちと共通項を持ちます。しかし、もこっちとの違いは、他者に対する心の開き方です。ストーリーを読み進めるとわかりますが、もこっちは何だかんだ言ってもオープンマインドです。他者に話しかけられれば、キョドりつつもそれなりに対応しようとします。しかしゆりちゃんは基本的には仲の良い友人以外には心を閉ざしており、他者に話しかけられてもそっけない対応しかしません。ゆりちゃんの方がより深刻なぼっちとして描かれています。これも、もこっちにあり得た、より深刻なぼっちとしてのもう一つの自己実現の姿といえるでしょう。

ただし、ここで注意したいのは、逆にみれば、ネモとゆりちゃんにとっては、もこっちこそが自己の影なのです(対称性)。彼らは、自分の影であるもこっちとの相克を経て、成長していきます。主人公のもこっちと自己⇔影の関係にある2人だからこそ、他のどのキャラクターよりも変化するのです。そして、冒頭述べた通り、登場人物の重要度は物語中どれだけ変化するかにおおよそ比例します。ゆえに、2人はもこっち以外では最も重要なキャラクターなのです(証明終)*1

 

さて、とりあえず以上の物語論をもとに12巻をみていきましょう。まず、ネモに関して、12巻で最も重要なエピソードは、3年生になったときの自己紹介のシーンでしょう。これこそ、主人公(もこっち)と影(ネモ)の価値観の相克そのものです。もこっちはネモに「黒木さんも普通の子になったんだね…」と挑発されて、新年度のクラス替え後の一発目の自己紹介で「彼氏募集中です」とふざけた発言をし、新しいクラスメートから奇異の視線を向けられます。しかし、これまで散々な目にあってきたもこっちは、周囲の目など意に介さない(実際はそれなりにダメージを受けていますが)というスキルを手に入れていたため、耐えることが出来ます。もこっち的な価値観が、自己をひた隠しにしつつ空気を読むというリア充的価値観に勝利した瞬間です。これを見たネモは、もこっちに圧倒され、「うまく演(や)るのはもういいか」と、自己紹介で自身の夢が声優になることをカミングアウトします。ネモの決定的な変化が描かれたアツいエピソードです(ネモについては作品全体を通して良いシーンが多いので、いつかまとめて記事にしたいです)。

 さて、他方でゆりちゃんはどうでしょうか。こちらの解釈は今のところネモの場合ほど明確ではありません。12巻においては、決定的な変化があるエピソードはありません。基本的には①もこっち(と吉田さん)と親密さが増してくる、という点と②先ほど述べたもこっちの影としての性質が浮彫になる、ように描かれているのが12巻でのゆりちゃんだと思います。①の変化は、基本的にはゆりちゃんにとって善い変化であることは間違いないと思います。しかしながら、もこっち・吉田さん(ともとから仲の良いガチレズさん)との親密さが増すにつれて②のような排他的な性質が際立ってくることも事実です。それを印象付ける重要なエピソードは焼肉回でしょう。なんだかんだでもこっちはリア充グループとそれなりに絡み、吉田さんもヤンキーで孤立してはいますが他のクラスメートと普通に話すことが出来ます。そんな中で、ゆりちゃんだけはそんな二人をみつめながら、ぼっちで無言を貫いています。主人公のもこっちと関わることで、ゆりちゃんはガチレズさん以外の友達を得るという①の変化を得ています。ゆりちゃんはそのまま、①の変化だけで終わるのか。あるいはさらに一段上の、排他的な性質を乗り越える日が来るのか(おそらくそれが描かれる際には、キバ子との対立の解消が重要なファクターになるでしょう)。今後の展開がとても楽しみです。

 

さて、ここまではネモとゆりちゃんという二人のキャラクターに注目して12巻を読んできました。そしてその枠組みとは別に僕の印象に残ったエピソードは、生徒会長の卒業です。まず、卒業生に別れの挨拶をしにいこうとする時点でもこっちの成長具合が凄いですね。しかし、生徒会長の周りには別れを惜しむ生徒たちが群がっていて、もこっちが「わたし以外にもっと話したい人がいるだろうし邪魔しないことにする」と言ってあきらめようとします。そのとき、吉田さんがもこっちの首根っこを掴んで生徒会長のところに連れていきます。細かいシーンですが、個人的にはこの時点でまずエモい。もこっち一人では突破できなかったことが、友達がいることで突破できるようになる。これも一つのもこっちの成長の成果です。吉田さん最高。そして、初めて自己紹介することでお互いの名前を知る。「最後にもう一度抱きしめとこうかな」といってもこっちを抱きしめる生徒会長。そして帰り道、もこっちは「もう一度」の意味に気付く…。この流れ、エモくないはずがない。また細かいところですが、泣いているもこっちに花粉症かと思ってティッシュを渡そうとするガチレズさんを制止している、"わかってる"ゆりちゃんも良いですね。わたもてはこういう細かい描写が良いです。生徒会長との別れの悲しさ。それはこれが、優しさを与えてくれた生徒会長との真の別れである点です。携帯やSNSがこれだけ発達した世の中で、誰かと真に別れることはめったにないです。仲のいいクラスメートとは、卒業後でもいくらでも会うことが出来ます。でも、もこっちと生徒会長の関係性はそうではありません。二人は(もちろん物理的に会うことは可能ですが、)もう一生会うことはないでしょう。現代社会においての別れは、物理的制約ではなく、関係性によって規定されるのです。

 

とりあえず12巻はわたもての頂点。

 

以上

*1:実は初期から設定されていたもこっちの影とも言えるキャラクターがいます。それはゆうちゃんです。中学時代もこっちと共に地味目の女子として生きていたゆうちゃんですが、高校デビューで一気にキラキラ女子になります。そうしたもこっちの影としてのゆうちゃんとの二項対立が初期わたモテでは描かれています。しかしこの二項対立は「モテるか/モテないか」という軸でしかないのに対して、ネモやゆりちゃんとの対立軸は、人間社会への関わり方に関するものであるので、後者の方が深いのです。まぁ、前者の対立軸はこの漫画のタイトル通りではあるのですが。

Supply-Side Liquidity Trap

ネットサーフィンをしてたらみつけて読んだのでメモ。コロンビア大のCalvoのノートです。

LIQUIDITY DEFLATION: Supply-Side Liquidity Trap, Deflation Bias and Flat Phillips Curve, January 22, 2018

別にこういう論文を探してたわけでもなんでもないんですが、個人的には、"Supply-Side Liquidity Trap"みたいに何か新しいタームを作られるとそれだけで興味をそそられてしまうので、上手い感じに造語するのが重要なのだなぁ(相田みつを風)。

 

流動性の罠といえば、ケインズ流動性選好説の重要な帰結の一つであり、金利がある程度低下すると流動性需要の利子弾力性が無限になるのでいくら中央銀行流動性を供給してもそれ以上金利を下げることが出来ず、金融政策が無効となる状態のことです。Calvoはこれを需要要因による流動性の罠ということで、Demand-Side Liquidity Trapと位置付けます。

一方で、このノートでは、中央銀行が貨幣をいくら供給しても、Liquidityを増やせない状態が存在すると考え、これによって金融政策が効果を発揮できない状態をSupply-Side Liquidity Trap、そしてとこれによって生じた流動性の不足によるデフレ的傾向をLiquidity Deflationと名付け、分析しています。決定的な仮定は、貨幣市場の均衡式(LM式)を、

M+Z(M)=L(i,y)、 Z'<0 …(1)

とする点です。通常のLM式と違うのは、Z(M)という項があることですが、これはMの減少関数となっており、左辺は貨幣M(あるいは安全資産)を増加させてもZの減少がそれをオフセットするため、トータルの流動性供給量は増やすことが出来ない、という構造になっています。では、Zとは何なのか。それは、貨幣の負の外部性を表しています。ここでは、貨幣には負の外部性があり、貨幣を増やせば増やすほど、貨幣の流動性としての質が低下していくことを想定しているのです。ケインズの一般理論に記されたIS-LM分析においては、貨幣供給量とその流動性としての質は独立であるという暗黙の仮定が置かれていますが、この定式化はその仮定を緩めたものです。

貨幣の負の外部性を正当化する直感的なストーリーは例えば次の通りです。ショッピングモールに行くことを考えると、貨幣を保有することは買い物にかかる時間を減らす効果があります(流動性としての価値)。しかし、どれぐらい時間を減らすことが出来るかは、他の客の貨幣保有量に依存します。みんながたくさん貨幣を保有すると、レジにたくさん人が並ぶので、時間を減らす効果は低下します(負の外部性)。あるいは、米国の大恐慌の時の例を考えることも出来ます。安全資産である米国債が担保として使用されているもとで、米国債の供給を増加させようとしても、それが政府の徴税能力の裏付けを上回って供給されるもとでは、担保としての価値が(ヘアカットされて)減少してしまいます。この様なもとでは、政府は流動性の供給量を増加させることが出来ないのです。

さて、LM曲線に関するこのような仮定の下で、Calvoは次の様なシチュエーションを考えます。

M+Z(M)< L(0,yf)、 1+Z'<0 …(2)

yFは完全雇用の生産水準です。1+Z'が負なので、Mをいくら増やしても流動性の供給量は減少してしまう状態です。この状態で、流動性の最大供給量が完全雇用の生産水準に必要な流動性供給量を下回っているので、いくらQE流動性を供給しても、完全雇用は達成できない訳です。このような金融政策の無効性を指してCalvoは供給要因の流動性の罠と名付けています。残念なことに、このような状況では拡張的財政政策すら無効となります。なぜなら、総需要を増加させようと財政を増加させても、それに必要なだけの流動性がないので、単に他の需要をクラウドアウトするだけだからです。

さて、ここまでは静学的な設定でしたが、動学論に拡張していきます(書くのが面倒なのでもとの定式化をさらに簡略化して書いてます)。Xtを流動性保有量として、

Xt = Mt + Zt …(3)

と定義します。MとZは静学の場合と同じです。そして、Ztに関しては、

dZt/dt = γ(lnX* - ln Xt) …(4)

と定義します。X*は天から降ってきた定数です。(3)、(4)から明らかな様に、ZtはX*に収束していくための誤差調整項の役割を果たすわけです。γは調整速度になります。つまりX*を超えて流動性を供給しようとしても、Ztの効果で、流動性の質が減少していくことでトータルの流動性供給量が徐々に減っていくモデルになっています。ここで、先ほどと同様に、X*が完全雇用における流動性需要量よりも小さい場合を考えます。すると、このセッティングからだいたい結論は明らかなのですが、このような経済ではマネーサプライの成長速度よりもインフレ率が低く(デフレーションバイアス)、フィリップスカーブもフラットな状態になります。

 

感想。現実的に(1)の仮定がどれだけ妥当なのかはという問題はありますが、みんながたくさん安全資産を持ってると、安全資産の流動性としての価値が低下するっていうのは(少なくとも短期的には)ロジックとしてはありえそうです。あと、もう一つ思うのは、需要側流動性の罠に関しては金利がゼロ近傍にあれば、流動性の罠にはまってるのは明らかなわけですが、供給側流動性の罠に関しては、本当に流動性供給の限界によって経済がバインドされてるのかというのは、単純なオブザベーションによっては判断しようがないと思うのですが、どうなのでしょうか。いずれにせよ、この議論がそんなに流行るかは謎です。

 

あと、これもはやこの論文と何の関係ないんですけど、読んでて頭の中で(語感として)連想したのは、マネタリーベースをいくら増やしてもマネーストックが(マネタリーベースの増加ほどは)増えないという日本の現状です。誰かこれをモデル化してくれ。

 

以上