経済・文化評論室

エコノミストであり、物語を愛するヲタクでもある。

未熟な日本社会~あるいは、なぜ日本のサラリーマンは息苦しいのか~

ネットでまことしやかに囁かれる噂として、日本企業(特に銀行)では、稟議書に判を押す際に、上司への敬意を表すために判を傾けて押すというものがあります。幸いなことに僕が勤めてきた会社にはそのような風習はありませんでしたので、この噂の真偽は一次情報としてはわかりませんが、グーグルで検索してみると、このような風習があると証言している銀行員の方のブログもあるので、恐らく会社によっては実際に行われていることなのだと思われます。

この慣習は、ある意味で日本社会の未熟な部分を象徴しているので、個人的には印象的なエピソードです。なぜこのような慣習が生み出されてしまうのか。この記事では、分析のフレームワークとして、皆さんも高校時代の現国で習ったであろう丸山眞男の「『である』ことと『する』こと」の考え方を用いて見ていきたいと思います。

「である/する」という二項対立について、簡単に復習しましょう。この2つは互いに対になる価値観です。まず「である」価値観というのは、その人物が何者であるかというものを重視する価値観であり、言い換えれば、地位や身分(to be or not to be)に重きを置くことを指します。一方で、「する」価値観というのは、その人物が何をするのかを重視する価値観であり、言い換えれば、役割や機能(to do or not to do)に重きを置くことを指します。丸山の文章中の例で言えば、徳川幕府においては、支配者である大名や武士は、人民に対するサービスをすることではなく、大名や武士であるという身分そのものが支配者たる根拠となっているため、「である」価値観の社会であると言えます。あるいは、もう少し身近な例を挙げるとすれば、高校の野球部について考えてみましょう。もしこの部活のレギュラーが、高学年であるというだけで優先的に選出されるとしたら、この部は「である」価値観の社会であると言えます。一方で、学年とは無関係に、試合で活躍するかどうかに基づいてレギュラーが選出されるとしたら、この部は「する」価値観の社会であると言えます。これらの例からもわかる通り、「である/する」という二項対立は封建制儒教道徳とも関連を持ちます。

さて、このフレームワークを日本の企業文化に当てはめてみるとどうでしょう。その前に、そもそも企業というものは、「である/する」で言えば、どちらの価値観に則るべきものでしょうか?これは自明ではありますが、赤の他人同士で何かをする目的のため(企業であれば業績の最大化等)に取り結ばれた関係ですので、する価値観に基づくのが当然でしょう。その目的を達成するために、組織内部の立場や役割は細分化していきますが、その中で生じる、上司やリーダーといった役割は、あくまで目的を達成するための機能であり、大名や士農工商といった身分とは異なるものです。丸山も文章中で述べていることですが、上司やリーダーといった存在は、上司であることそのものによって良い業績を達成することによって価値を判断されるべきものです。そして、彼らが上司やリーダーであるのは、その職場における機能や役割においてのみであり、機能や役割を離れた面においては部下とも人間としては対等であるはずです。機能や役割を離れる、というものの最たる例を挙げると、職場を離れた日常生活においては上司も部下も対等であるのは当然です。

しかしながら、日本の企業において、役職は多かれ少なかれ身分化しています。言い換えるならば、日本の企業においては、企業という「する」価値感に基づくべき組織に「である」価値観が強く根差しているキメラ的な状況に陥ってると言えるでしょう。その具体例の一つとして、ようやくここで冒頭に述べた斜め判の話に戻ります。果たして、稟議書に斜めに判を押すことには、何か機能上の意味が存在するのでしょうか*1。言い換えるならば、斜め判というルールは「する」価値観に基づくものなのでしょうか?ここまで読んで頂いた方にはお分かりのように、斜め伴は、「する」価値観ではなく「である」価値観に基づく決め事です。すなわち、斜め伴によって表明されているのは、上司であることに対する敬意であり、この事象は、上司であることが身分化していることの証左に他ならないのです。もう一つわかりやすい例を挙げましょう。仕事終わりに上司と部下でちょっと居酒屋にでも行こうと言う場面。部下は上司のために注文をしたり、上司にお酌をしたりするのは普通の光景です。しかし、これも、上司がであることが身分化していることを示す良い例でしょう。先ほど述べた通り、上司というのはあくまで機能であり、目的組織の中でのみ有効なフィクションです。にもかかわらず、日本社会においては、まるで人間としての上下かの様に、機能を離れた場面においても地位関係を規定するのです。また、少し脇道にそれますが、日本企業に根付く「である」価値観の好例として、年功序列制についても触れておきましょう。ここまで読まれた方にはもうお分かりのことと思いますが、「〇年入社である」ことのみを価値基準の判断とする年功序列制は、「である」価値観そのもです。

このように、日本では、本来「する」価値観に基づくべき企業において、「である」価値観が至るところに根を張り巡らせていることがわかりました*2。個人的には、このようなキメラ的状況が生み出す様々なひずみや矛盾が、日本のサラリーマンを息苦しくしている諸悪の根源であると考えています。

さて、丸山は文章中で、中世(ハムレットの時代)は「である」価値観が最大の関心事であった一方で、自由や民主主義に基づく近代は「する」価値観の社会であると整理しています。日本は(少なくとも企業文化という面に限れば)この意味において中世であり、仮に中世よりも近代を成熟した社会とするならば、表題の通り日本は相対的に未熟な社会であると言えるでしょう。日本社会よ、そろそろ「人間同士は本質的に対等である」という近代的価値観を受け入れてみてはどうだろうか?

 

以上

 

p.s. 

「である/する」という二項対立は他にも応用出来ます。最近では、倒れた市長に救命活動をするために女性が土俵に上がった際、「女性は土俵に上がるな」とアナウンスされた事件がありましたが、これは「である/する」の対立の例の一つです。すなわち、女性である、ことを以って土俵に上がることを禁ずるのか、救命活動をする、ことを以って土俵に上がることを許すのかという対立です。私の個人的な印象では、さすがにこの件に関しては土俵に上げることを許した方が良いと思います。ただし、一般論としては、文化や伝統といったものは、企業活動と違って本質的に「である」価値観に基づくべきものであるため、安易に「する」価値観を持ち込むべきではない、という側面もあります。

*1:判の傾き具合で賛成度合いを表明するという意味不明な議論もありますがここでは捨象しています。

*2:なぜこのようになってしまったかは、丸山眞男の文章に近代化の失敗として論じられてるので興味があれば読んでみて下さい。