経済・文化評論室

エコノミストであり、物語を愛するヲタクでもある。

超読解・少女☆歌劇 レヴュースタァライト(第5話~第8話)

レヴュースタァライトの超読解(感想)の続きです。

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前回の記事でも申し上げ通り、基本的にこの記事では、①物語の背後にある本質②アニメ上の象徴的演出の2点に軸を絞って、私が本作から"読んだ"ことを開陳していきたいと思います。

前回あまりにも長くなったので、反省してこの記事はコンパクトにすることを目指します。

 

(以下ではアニメのキャプチャ画像を載せていますが、著作権法32条1項と文化庁ガイドラインに鑑み、引用に該当すると考えて掲載を行っています。また、英字字幕が出ていますが、違法視聴ではなくHIDIVEという海外ストリーミングサイトで課金して視聴しています) 

 

第5話

成長するものと留まるものの対比。身近な人が急に成長していくときのリアルな反応って、この話のまひるちゃんとか次の話の香子とかだと個人的には思うので、割と感情移入してしまいます。

さて、この話の本質ですが、既に作中で概ね言語化されているので改めて言うことは少ないです。早速レヴューを見ていきましょう。嫉妬のレヴューにおいて、華恋とまひるちゃんは一体何の命題を戦わせているのでしょうか。結論から言えば、「まひるちゃんはきらめている」(華恋)VS「まひるちゃんはきらめいていない」(まひる)というかなり個人的な命題の戦いです。

このレヴューの勝敗に関してですが、後ほどわかる通りまひるちゃんは実際にはきらめいているので、華恋が勝利するのは必然です。また、華恋が勝利してまひるちゃんを導く(=再生産させる)上では、華恋自身が再生産後であるというのも絶対の必要条件でしょう。

これはレヴュー中の華恋のセリフを注意して繋いでいけばわかります。

「そう、思い出したの…舞台少女になったわけ。ひかりちゃんとの約束…わたしのスタァライトを」

「なりたいものがあったからこの学校に来たんでしょ」

まひるちゃんにもあるでしょう、まひるちゃんのスタァライトが」

このセリフを発言することが出来て、まひるちゃんのスタァライトを思い出させることが出来るのは、華恋自身が再生産を経て自分のスタァライトを思い出すことが出来たからです。ちなみにこの議論の論理的帰結として、ひかりちゃんが来ないほかのループでは華恋の再生産も起こらないので、連鎖的にまひるちゃんの再生産も起こらないだろうな…ということが分かります(先日の記事で書きませんでしたが似たような理由で星見純那の再生産も起きません)。

 次に象徴表現の方を見ていきましょう。誰でもわかる通り、この回では芋=まひるちゃんという一見すると酷な様な気もする象徴表現が用いられています。ただし、最後で芋がかなり魅力的に描かれてるので良しとしましょう。

個人的に印象深いというか重要だと思ってるのは次のカット(から続くシーケンス)です。

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©Project Revue Starlight

なぜならば、このカット一つでまひるちゃんがきらめいているという事実が表現されているからです。テレビのインタビューでまひるちゃんが言う、なりたいスタァ像は次の通りです

「大切な人たちを笑顔に出来るようなあたたかいスタァになりたいです」

このカットではみんな芋で笑顔になっているのですが、この回では芋=まひるちゃんなので、この絵一枚でまひるちゃんは「大切な人たちを笑顔に出来る」ということが示されており、まひるちゃんはちゃんときらめいているという命題が肯定されているのです。

 また、印象深いセリフは、常に本質を端的に発言してくれる天堂真矢が芋を食べながら言う次のセリフです。

「朴訥とした外見に秘めた芳醇な味わい」

 これは芋を褒めて言ったセリフですが、つまりはまひるちゃんのことでもあるわけですね。

そして、最後のまひるちゃんのセリフも重要です。

「大切な人たちを幸せにしたいと思えば、何度でもきらめける

 僕個人の意見としては、このアニメ全体の根本的な主張・思想は「一度失敗しても(堕落しても、きらめきを失っても)もう一度やり直せるのだ(=再生産可能性)」というものだと考えています。前回の記事でも述べた通り、愛城華恋VS星見純那のレヴューでは、その根本的な命題について争っていたと解釈しています。そうした視点でまひるちゃんのこの最後のセリフをみると、まひるちゃんは第5話で再生産を経て、「何度でも再生産出来るんだ」というこの作品自体の根本的な主張に辿り着いた、と考えられます。さらに言えば、「大切な人たちを幸せにしたい」というのはまひるちゃんの"スタァライト"なので、このセリフをやや一般化して書き換えるなら「スタァライトを思い出せば、何度でも再生産出来る」となるのです。

 

余談ですが、序盤でひかりちゃんが言う「奪うとか…簡単に言わないで」というセリフも、二周目に視てようやくその意味が分かる味わい深いものですね。

 

 

第6話

正直あまり考察する箇所はないのですが、個人的には大好きなエピソードです。二回目以降は、「その代わり、うちが世界で一番きらめくところを、一番はじめにみせたるから」というセリフだけで泣けますね。

さて、第6話の本質を読み解くにあたって重要なのは、二度にわたって発言される「香子はわかっていない」というセリフです。

双葉「お前さ、なんにもわかってないな」

クロディーヌ「まぁ、いい機会かも。香子、わかってないから」

果たして、香子がわかってないこととは一体何なのでしょうか。実はこの答は明快で、いつも本質しか語らない天堂真矢が二度にわたって教えてくれます。

「追われ続ける運命…お互い、気が抜けませんね」

「追って来る者のため、応援してくれる者のため、最高の自分で居続けなければならない使命感」

香子は、「自分に憧れて、自分に追いつこうと血のにじむ努力をしながら追いかけてくる存在としての双葉」に気付いていないので、この命題の意味を理解していません。

香子「追いかけてなんて、こおへんわ」

そしてレビューです。約束のレヴューでは、最終的に香子が勝利するのですが、そもそも、なぜ頑張って努力をしてきた双葉ではなく香子が勝利するのでしょうか?

これは、「香子がいつ再生産を完了したか」という論点に行きつくと思います。結論から言えば、やや珍しい形ではありますが、約束のレヴューではレヴュー最中に既に香子が再生産されているのです。再生産後の香子だから双葉に勝利できた…という構図になっていると考えられます。

重要なのは双葉の次のセリフです。

「約束しただろ…お前が世界で一番きらめくところを、一番はじめにみせてくれるって。だから、ずっとお前を追いかけて来たんだ

恐らくですが、双葉がこのセリフで明示的に「私はお前を追いかけてきた」と宣言した時点で香子は追いかけてくる存在としての双葉をしっかりと認識して、先ほどの天堂真矢に提示された命題を受け入れていると思います。 さらにダメ押し的に、香子が自分のボタンを刎ねようとするのを双葉が止めたことで、香子の再生産は完了しています。ので、続く香子のセリフは次の通りです。

「追って来る者のため、応援してくれる者のため、うちは最高の自分で居続けんとあかんのやね」

はい、完全に命題を受け入れてますね。再生産済です。

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©Project Revue Starlight

ちなみに荻窪駅のこのホーム(一番線)は東京行きとは真逆の総武線三鷹方面しかこないので、香子は本当に遠回りしたのでしょうね。

 

第7話

全12話中、唯一キャラクターの名前を冠するこのエピソード。大場ななというキャラクターは明らかに作中で特別な存在と考えられるのですが、ここで僕の大場なな論を開陳させて頂きたいと思います。

まずその前に、このアニメに限った話ではない物語の一般論を説明させて下さい。物語というものは、メッセージとしてある価値観・命題を提示するものですが、深い物語はその命題が一方的に正しいという様に描くのではなく、その命題の負の側面もちゃんと描きます。というよりも、負の側面もない圧倒的に正しいことは主張する必要が無いのです。意見の分かれる多面性のある命題に対して、物語は一つの結論をだします。

ではこのアニメの根本的なメッセージ=命題は何なのでしょうか。当ブログでも何度か触れてきましたが、僕の意見で根本的な命題は「再生産=やりなおし可能性」だと思っています。例えば、前の記事で書いた通り、僕の理解では、もともとの星見純那は一度失ったら二度とやり直せないという強迫観念があって、愛城華恋とのレヴューを経て「やりなおせる」ということに気付きます。他のキャラクターも、一度はきらめきを見失いますが、何度でも舞台少女は再生産出来る…ということを証明していくのです。

このアニメの根本命題が「再生産可能性(やりなおせる)」であるという前提に立った時、この命題の負の側面は何なのでしょうか。実はこれこそが、大場ななが背負っている主題です。再生産・やりなおしという価値観が含む危うい側面・負の側面。それは、「同じことを繰り返し再生産してやりなおす」という行為がもたらす無限の停滞です。

なぜ大場ななだけがエピソードタイトルになっているのか?なぜ大場ななのエピソードだけが3話またぎになっているのか?それは、大場ななが極めて重要なキャラクターだからです。なぜ極めて重要なのか。それは、他の全てのキャラクターたちがこのアニメの根本命題の正の側面を描いているのに対して、唯一大場なな一人だけが負の側面を描いているからです。大場ななの主題は、このアニメの提示する価値観の根幹に関わるものなのです。

 

 さて、僕が大場ななについて本質的に言いたいことは上で済んでしまったので、七話自体については細かい象徴表現を少し指摘するだけに留めておきましょう。

まず、キリンと初めて対峙したときに、大場ななの後ろにある倒れた星摘みの塔。これは皆さんお分かりの通り、倉庫に眠っている星摘みの塔のことであり、第99回のスタァライト講演自体の象徴ですね(下段図は第9話から)。

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©Project Revue Starlight

 あと、第七話の特徴として中庭のミロのヴィーナスが執拗にカメラに入ってくるという点があります。正直に申し上げると、僕自身はこれが何を象徴してるのか読み切れていません(笑)。なので誰かわかる人がいたら教えて頂きたいです。

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©Project Revue Starlight

以下は僕の暫定的な思索(妄想)です。OP直前のこのカットでのセリフは、「この日、生まれたのです。舞台少女大場ななが」ですので、素直に読むとしたらミロのヴィーナスが大場ななをある意味で象徴しているのでしょうか。ミロのヴィーナスと言えばその体躯の美しさであり、しかも実は結構な長身ということもあって、大場ななと重なる部分も無くはないです。

では、ミロのヴィーナス=大場ななと仮定した場合、これは何を伝えようとしているのでしょうか。ミロのヴィーナスの最大の特徴は、その両腕の欠損です。この物語の中で腕の役割と言えば、スタァライトは星摘みの物語である以上、当然掴むという行為でしょう。つまり、腕が無い=何かを掴めないということの象徴かなと思うのです。

大場ななは何を掴めないのでしょうか?これは直感的にもわかる通り、彼女のきらめき=(スタァライト)でしょう。永遠の繰り返しの停滞の中にあっては、彼女が第99回聖翔祭のスタァライトで感じた「燃える宝石の様なきらめき」に辿り着くことはありません。それゆえに、大場ななは何度ループを繰り返しても充足されることはなく、「眩しいの…まだ」と言ってループを続行します。皮肉な話ですが、第99回聖翔祭のスタァライトの再演を繰り返し続ける限り、第99回聖翔祭のスタァライトには届かないのではないでしょうか。

七話冒頭の劇中劇において、唯一大場ななだけが腕を空に掲げてるのも、なんとなくこのミロのヴィーナスの腕論を支持してくれるような気がしませんか?

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©Project Revue Starlight

いずれにせよ、あまりこの解釈は強い根拠があるものではないので、より良い読み方があればぜひご教授下さい。

ちなみにこのミロのヴィーナスは、舞台となっている津田塾大学の中庭に実在します。

全体的に神劇伴の多い本作品ですが、その中でも屈指の名曲はこの七話のループのところの曲でしょう。曲名はロンド・ロンド・ロンドですが、そのままループを示唆する名前になっているのですね。

 

第8話

 ひかりちゃんの過去が明らかになるこの話。ロンドンでレヴューに参加してひかりちゃんはきらめきを失うわけですが、そもそも何故彼女は負けたのでしょうか。

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©Project Revue Starlight

この二枚のカットがヒントになります。とても矮小な存在であるひかりちゃんに対して、掴みかかる手はとても強大です。あえて同じ構図にしてあるということは、ジュディ(ロンドンでひかりちゃんに勝った人)は、本気を出せば天堂真矢を容易に倒せる大場なな並に強大な力を持っているということでしょう。と同時にこのカットが示唆することは、ひかりちゃんにとって大場ななとのレヴューは、敗北を喫したロンドンでのレヴューのやりなおしであって、このレヴューを制することが彼女のきらめきの再生産の必要条件であることが示唆されます。

さて、第8話のレヴューですが、タイトルは「孤独のレヴュー」です。個人的にはひかり・大場ななのペアのレヴューにこのタイトルを付けたのは天才的だとすら思います。なぜならば、「孤独」はこの両者に共通する主題であると同時に、レヴュー時点での二人を明確に分かつキーワードでもあるからです。孤独というテーマを軸に二人のコントラストが明確な、非常に印象深いレヴューとなっています。

神楽ひかりが背負っていた孤独とはなんでしょうか。それは、ロンドンで失ったきらめきを取り戻すため、聖翔音楽学園で華恋や他のクラスメイトを拒絶しながら一人孤独に戦っていたことです。残酷な結末を迎えるレヴューの本質を知っていたのも彼女一人だけです。

一方で、大場ななの孤独は、第99回のきらめきをもう一度手に入れるため、そして舞台少女たちを絶望から守るために一人孤独に永遠のループを繰り返していることです。ループを認識しているのが自分だけ…という状況の孤独が強烈なものであるということは、他のループもの作品を引き合いに出すまでもなく自明なことでしょう。

そして両者が孤独を選ぶ理由は、ひかりちゃんは華恋を守るため、大場ななはみんなを守るため、という要に「誰かを守るための孤独」という点も共通しています。

では、レヴュー時点での明確な二人の差異とは何でしょうか。それは、神楽ひかりは第4話で華恋と真に再開することで、孤独という主題を既に乗り越えていることです。圧倒的な力を持つ大場ななに対して、神楽ひかりはなぜ勝利することが出来るのか?と問われたら、「神楽ひかりは孤独を既に乗り越えたから」という回答になります。

この物語に通底する価値観として「再生産可能性」がある、ということは従前から申し上げていますが、ここに付随して通底する価値感として「一人より二人」というものがあります。この2つの価値観は、「再生産は一人で成し遂げるものではなく、他者との接触の中で起きる」という本作の描かれ方を鑑みれば、ある意味で不可分のものと考えられます。

そういった意味で、孤独=一人という主題を既に乗り越えた神楽ひかりが孤独を抱えた大場ななに勝利するのは物語に通底する価値観に肯定された必然であるということです。大場ななが孤独という主題を乗り越えるには、第9話のラストで星見純那が大場ななのやってきたことを全て受け止めながら彼女を再生産に導くシーンを迎えるまで待つ必要があります(詳しくは第9話のときに説明します)。

さて、このレヴューを経て神楽ひかりは再生産してしまう訳ですが、そこでこのアニメの物語は終わりません。第8話で3回にわたって強調されることがあります。

ジュディ(劇中劇のセリフ)「いつか、あの者と戦うことになっても」

キリン「いつか、あの子と戦うことになっても」

大場なな「いいの…?いつか、あの子と戦うことになっても」

第1話のところでも説明しましたが、少女歌劇レヴュースタァライトのアニメ全体の物語構造そのものが、劇中劇のスタァライトと重なる様になっています。即ち、第10話まではレヴューでクラスメイトたち=塔の女神たちを倒して塔の頂きに上る話なのです。ジュディ・キリン・ななのセリフは、もしこの物語がスタァライトの悲劇の通りであれば、その先では必然的に華恋とひかりが戦ってどちらかが落下する=きらめきを失うよ、という警告をしている訳です。

このアニメの過酷なところは、華恋・ひかりという主人公ペアが両方再生産が完了してもそこで終わりではないところですね。果たして二人はスタァライトの悲劇に打ち勝つことが出来るのか…という点に向かってこの先の物語は収束していくことになります。

 

あとこれは、友人から聞いてわかったのですが、物語の随所で出てくる逆さまの東京タワーは、タロットカードでいうところの「塔」の逆位置を表している様です。塔の逆位置の意味=再生であり、神楽のきらめきの象徴とのことです。なるほど!!

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続き

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以 上