経済・文化評論室

エコノミストであり、物語を愛するヲタクでもある。

"経済のわかる大人"とは

アメリカでは高校生の時から経済学を勉強します。Council for Economic Educationの2018 Survey of the Statesによれば、2018年現在、25の州において高校が経済学の授業を提供することが義務付けられており、22の州においては経済学の履修が卒業の必要条件となっています(さらに最近では、金融教育の重要性が認知されるにつれ、個人金融(Personal Finance)の授業の必修化が進んでいます)。一方、日本の高校でも、「現代社会」か「政治・経済」が必修ですので、必ず一度は経済について学ぶ機会があるのですが、米国の様に経済学専門の授業というわけではなく、政治分野、倫理・社会分野との混合カリキュラムということになり、米国と比べて必然的に浅い内容となっている感は否めません*1

結果として、日本で普通に教育を受けていると、経済系の学部にでも行かない限り(あるいは経済系の学部に行ったとしても)、経済のことがほとんどわからないまま大人になってしまう訳です。なのに、社会に出た途端に(あるいは就活を始めた途端に)財界の同人誌こと日経新聞を読むことを強いられ、散発的に出現する大人たちの経済談義に対して、さも分かっている様な表情で神妙に頷くことを余儀なくされるのです。中には悪い大人がいるもので、曖昧に頷くあなたを見て、「あ、こいつこの話分かってないな」と気付きつつも、逆にそれに気を良くしてさらにドヤ顔の語りを畳みかけてくる場合すらあります。

しかしどうでしょう。もしもこの様な場面で気の利いたコメントを一言発することが出来たとしたら。周囲の人たちは「お、こいつは経済のことをわかっている奴だな」と一目置き、あなたのことを一人の大人として認めてくれることでしょう。上司はあなたを気に入り、次々に重要な仕事を任せてくれるようになります。そんなあなたに女子社員が熱い視線を向けていることにお気づきでしょうか。営業先のおじさんはあなたのことを信頼し、商談がスムーズに進む場合もあるでしょう。経済について語るあなたを見て奥さんや子供も尊敬の念を深めますので、家庭環境が好転することは説明する必要もないですよね。もはや、経済について語ることは、現代社会において大人になるためのイニシエーションであるとすら言えます。

さて、そんな経済のわかる大人になることの重要性はわかりましたが、そもそも、経済のわかる大人とはどういう状態を指すのでしょうか。ここで僕は、経済のわかる大人としての必要で十分な3つの条件を考えてみました。

  1. 経済の話題について一言コメントが言える
  2. 自信に満ち溢れている
  3. (匿名で)インターネット上で経済の議論をしない

1については、最も重要と思われる部分です。経済のわかる大人とは、周囲からみて経済についてわかっている様にみえる大人でなくてはいけません。そのためには、何らかの発言をすることで、経済のことをわかっていると表明する必要があります。ここで注意してほしいのは、経済のわかる大人になるためには、経済のことを真にわかっている必要はないということです。経済を真にわかろうとすることは、時間の無駄であるという意味において有害ですらあります。まともな大人であれば、当人にとって日本経済や世界経済以上に大事なことがあるはずです。経済のわかる大人であるために重要なのは、それっぽいコメントを言えることだけです。実際、世の中の大人たちの経済談義は、本人たちもよくわからないまま雰囲気で行われていることが大半です。

2も実に本質的な部分です。仮にあなたがFedノーマライゼーションが国際金融市場に与える影響についていかに深い洞察を持っていたとしても、自信なさげな態度でそれを語っては、周囲はあなたのこと経済のわかる大人とは認めてくれません。逆に、いかに大したことないコメントであっても、それを自信満々に宣言することで、あなたを経済について深い知見を持つ人物だと思わせることが可能です。事実、経済に関するコメントを言わなくてはいけない場面では、ほとんど自明とも思える経済的命題を自信満々に宣言することで乗り切れる場合がほとんどです。ここで注意してほしいのは、経済のことを語るときだけでなく、普段から自信に満ちていることが重要だということです。普段自信なさげに過ごしているくせに、経済の話題になったとたん突然早口でまくし立てるのは、単なるイキリオタクです。

3ですが、これは端的に言って時間の無駄だからです。インターネット上で(匿名で)経済の議論をすること以上に不毛なことはないと言えます。経済事象は非常に複雑ですので、自然言語に基づけばあらゆるロジック(ストーリー)を用いてどのような結論も導くことが出来ます*2。そのようなものに対して、SNSや掲示板でのレスバトルに時間を費やすことは、経済のわかる大人の態度ではありません*3

もしあなたが経済のわかる大人になりたい場合、上記の3つの条件のうち、2と3は僕の力ではどうすることもできませんが、もしかしたら1は何とかなるかもしれない。皆さまが経済のわかる大人になれるように、経済の知識ゼロからでも1が出来る様になるような記事を今後書いて行こうかと構想しています。

 

以上

*1:実際、CEEの推奨するカリキュラムをみるとレベルは高いです。特に好感が持てるのは、貨幣や金利といった経済の基礎概念についてしっかりと説明を行っているため、他の内容もそれらの概念を応用しながら理解できるような構成になっている点です。日本の高校の経済分野のカリキュラムがマズいのは、そうした基礎概念をおろそかにしたまま財政政策や金融政策等の応用概念に進むため、ロジックが有機的に繋がらない、単なる各論の暗記ゲーになってしまっている点です。まあ日本の高校の経済教育の現状とか1mmも知らない訳ですが。

*2:逆に、経済学の理論モデルの有用性とはどのような点にあるのか。それは、どのような前提を置いているのか明確化出来る点と、論理展開が数学的操作のみに依るため、演繹の正当性が保証されている点にあります。インターネット上の比較的短い文章でのやりとりでは、どのような前提が共有されているのかといったことも不明瞭ですし、推論方法の正しさを保証するものもないので、往々にして議論が噛み合わず、水掛け論に陥りがちです。

*3:ただし、非匿名で経済談義をすることは、リアルでの経済を語る場合と同様に、経済のわかる大人としてのブランディングの意味合いがありますので、この限りではありません。このほか、真に経済をわかっている人同士であれば、前提が共有されていると思うので議論にも意味はあると思います。

PS4 UNDERTALE

かなり多くの友人たちが推奨していたので、僕もやってみました。Gルートをようやくクリアしたので感想をメモ。

まともにゲームやったのは久々だったのですが(ノベルゲーは別)、昔の和ゲーっぽい雰囲気にあふれてて、懐かしい気持ちになるゲームですね。世界的にかなり売れてる様ですが、やってみて納得です。ストーリーよし。キャラよし。ゲーム性よし。音楽よし。非の打ち所がない。強いて言えば制作リソースが限られていることから、マップ全体が狭いという印象はありました。しかし、物語をループさせることで、限られたマップを最大限有効活用することに成功しています。

最初に提示されるストーリーは、地下に閉じ込められたモンスターたちの世界に主人公の人間が落下してしまい、脱出するためにラスボスを倒しに行く…というとてもシンプルなものです。しかし、ループを繰り返すにつれ明らかになる真のストーリーは、実際にはかなり重層的です。最初に落ちた人間(いわゆるChara)が物語の根幹にあるというトリックはいいと思いました(小並感)。

あと、Pルートの最後のエモい展開は正直好きです。Nルートで敵対していたモンスターと人間が、共に歩む道があるという展開の時点でエモいですが、何よりエモいと思ったのはアズリエル戦の、彼に取り込まれた友達をふっかつさせていく演出です。彼らの好きなものや思い出を提示していくことで、彼らの人格を取り戻していく…というのは非常に良いです。特に、ゲームを二周プレイする中で、敵対したり仲良くなったりしているので、彼らに凄く感情移入しているんですよね。好きなものや思い出っていうのは、そのキャラへの愛着のコアなので、それを以って彼らを「ふっかつ」させる展開は感情を揺さぶられます。ちなみにこのシーンで個人的に最も涙腺を刺激されたのは、地味に、ふっかつしたアンダインが「でも、いいニンゲンもいるよね!」というシーンでした。当初最も主人公と敵対していたキャラだからですかね。ある種Pルートを象徴している感もあって好きです。つーかこの場面でのHope and Dreamはエモ過ぎて卑怯。

そしてGルートですが、遺跡を抜けて最初にセーブしたときに、赤字で「あと〇体残っている」と表示されたときは本気でビビりました。あと、これまでおもちゃのナイフしかなかったのにこのルートではほんもののナイフが手に入って、説明文に「やっとみつけた」って書いてあるのもグッときましたねぇ。このルートは正直心苦しいですけど、ストーリーの根幹が明らかになりますし、何より個人的には、キャラの別の側面がさらにわかるのも良いと思いました。パピルスめっちゃえぇ奴やんけ…。あとこのルートで印象的なのは、人間めっちゃ強いってことです。まあほかのルートでもそういう風に説明されてますが、人間はモンスターより圧倒的に強い。初見プレイ時にアイテムなしで臨んで殺されまくったマフェットが、こちらが本気で殺そうとすれば秒殺とか、悲しくすらありました。圧倒的暴力でモンスターを殺しまくる様は、何の正当性も無いまさにジェノサイド。だからこそ、全ての責任は主人公の判断、いやプレイヤーの判断に帰されるわけです。

ゲーム自体は単純かと思いきや、しっかりゲーム性もあって楽しめました。戦闘はまさに東方シリーズの様な弾幕除けゲーですが、ボスキャラごとに様々な工夫が凝らされていて飽きません。難易度もよい感じに調整されてます。Gルートのアンダインとサンズには合計100回近く殺されたような気もしますけどね。不殺のRPGであるアンダーテールというゲームをゲームとして成立させるためには、この弾幕除けゲーは必要条件なので、よく考えたなあって印象です。ゲーム性という意味では、隠し要素や小ネタも満載なのが凄いです。条件によるこまごまとした分岐の数も半端じゃないので全部回収するのは不可能でわ、というレベル。

そして何より個人的に印象的なのは、本当に音楽が良い。なんというか、ゲーム音楽としてよい。調べてみたら、開発者のToby Foxはコンポーザーの様ですね。納得。個人的にぱっと思いつく好きな曲を挙げるとしてら、Asgore、Spider Dance、Snodin Town、Undertaleとかですかねぇ。Asgoreはほんとエモい曲です。具体的にはドミレミド・ドーレミシソのリフのシンコペーションのドーが気持ちいいです。なんとなくアズゴア戦で初めてエモい音楽を背景に派手な弾幕を避けるというゲームの楽しさを知ったので、東方が好きな人の気持ちをちょっとわかったような気がします。Spider Danceは、とりあえずマフェットちゃんが可愛いという時点で名曲ですね。個人的にはゲームの劇伴において色んな変奏があるとテンション上がるんですが、これってNapstablookとMad dummyの変奏ですよね。そもそもこの二曲がいい曲なのですが、これらがシャッフルビート入ったおしゃれ系なのに対して、Spider Danceは一番アップテンポでテンション上がるし8bit風の要素も入れてくるので好きです。Snodin Townについては、個人的にはバイオリンのピチカート(piziccato)が使われているRPGのBGMは神曲という法則*1があるのですが、その例にもれずこの曲も良い曲です。これほんとにザ・RPGのBGMって感じで好きです。Undertaleはタイトル曲だけあって、聞くだけで泣ける(どこで流れてたかは忘れた)。ちなみにこれら以外にもいい曲だらけです。

 

とりあえず1500円ぐらいでプレイできるのでやった方が良いと思うゲームです。 

 

以上

*1:ちなみにほかの具体例を挙げろと言われたらマリオRPGのマシュマロ王国のBGMを挙げさせて下さい。マリオRPG神曲だらけでしゅごい。

メイドインアビス1期

放送当時から気になってはいたのですが、契約してるcrunchyrollで配信されてなかったので視れませんでした。ところがこの度、米amazonのプライムで無料配信していることに気付き、とりあえず一気に視聴しました(一期だけに)。

まだ完結していないので何とも言えませんが、久々に良いアニメだな~と感じたので、とりあえず今のところ感じたところをメモ。

 

ストーリーは、街に巨大な穴があって、母を探してひたすらその穴に潜るという非常にシンプルでわかりやすいもの。可愛らしいキャラデザと美しい世界観とは裏腹に、冒険は苛烈ですし、残虐な描写やグロテスクな表現、エグい展開などが散りばめられています。

キャラクターはどれも魅力的ですが、個人的には不動卿のオーゼンは結構好きですねぇ。僕も不働卿になりたいです。それはさておき、なぜオーゼンが好きかというと、個人的にはこの立ち位置のキャラクターだいたいいつも好きです。ハリーポッターで言うとスネイプ先生の立場ですかね。ハリーポッターのストーリー全く知らないので間違ってたらすまん。特に、リコの母親との日々を回想するシーンが好きです。こういう、今は既に亡くなっているとされるキャラ(母親は生きてるっぽいけど)との過去を回想するシーン、大体泣けてしまうタイプの人間なので、このシーンでもうるっときました。感性が単純ですまん。

あと、話の構造上、ひたすら別れが訪れ続けるのも、悲しいですがグッときます。しかも、それぞれの別れの感情の動きがしっかりと説得力があるように描かれているので良いです。孤児院の仲間たちもそうです。シーカーキャンプのマルルクが言った「これまで何度も戻らぬ旅に出た人を見たけど、今回が一番悲しい」というのも本心でしょう。そしてあのミーティとの別れ…は言わずもがなですね。最終話、主人公たちと一緒に旅に出発することにしたナナチが、ミーティの姿に似た自分のアジトを一瞬振り返って、しっかりと前を向いて歩きだすシーンの演出は、正直良かったです。

あと、音楽もよいです。全体的に演出もよい。絵も綺麗。言うことねえ!ただ、一つ言えることとしてはところどころに12才少女の全裸をブチ込んで来るのはどうかとおもう。少女の骨を砕いて腕を切断しようとするシーンとか、少女に麻酔なしの手術をして痛過ぎて失禁する描写とか、作者の趣味が入ってるのでわ?感が否めない。

 

この先の展開を考察するにあたって、物語の一般論を考えてみます*1。大胆に予想すると、あらゆる物語の構造の基本は隣のトトロに代表されるような「(日常から非日常に)行って帰ってくる」なので、何だかんだでリコはオースの街に帰ってくることになるんじゃないかなぁとぼんやり思っています。その際問題になるのは、誰と帰ってくるかということです。また、物語の一般論を考えます。大半の物語は、劇場版ドラえもんやETに代表されるような、「異種との接近と離別」です。さて、メイドインアビスにおいて異種とは誰のことなのか?まず最初に思いつくのはレグですよねぇ。レグとの離別というのは全然ありえますし、感動的な物語になりそうです。でも、もしかしたらレグ=日常というエンドもあるかな、とも個人的には思っています。この物語においてリコにとっての場所の意味とは、オース=日常、アビス=非日常な訳ですが、レグはすでにオースの街に帰るべき場所があります(ただし、レグの記憶とか色々未知の要素が多すぎてあくまで仮説ですが…)。では、レグ=日常エンドの場合、異種とは誰なのか。それは、リコの母親になるのかなと思います(もちろんナナチとかもあるわけですが、最重要という意味で)。物心ついたときから孤児院にいたリコは、母親の顔すら覚えていません。リコの母親は、リコの日常ではないのです。だから、普通に考えると、リコにとって母親は日常ではありません。前提として、最後にリコが日常に帰るとしたら、(第9話の上昇負荷でリコが視た幻覚とは裏腹に、あるいは幻覚で視てしまったがゆえに)リコと母親が一緒にオースの街に帰るという可能性は低そうです。というわけで私のラストの大胆予想は「母親に会う→何らかの危機→母親死ぬ→リコとレグがオースの街に帰還する」でファイナルアンサーです!あと、個人的にすごい視たい展開というか、リコはこの場合どう判断するんだろう、って気になるのは、リコがレグか母親のどちらかを生かしてどちらかを死なせなくていけないとしたら、どうするのかってことですね。というのも、第9話の上昇負荷の幻覚でのリコのセリフである「レグと一緒じゃないと嫌だ」っていう言葉が印象に残っているからです。あの幻覚では、皆に祝福されながら母親とともにオースの街に帰還する夢を視ていたわけですが、その幻覚っていうのはもはやリコの当初の目的を達成してるわけじゃないですか。なのにそれをひっくり返してまでレグと一緒にいることを選んでるわけですから、上述の様な二択を迫られたとしたら恐らくリコは…。

 

以上、私の妄想(根拠なし)です。まぁ妄想が捗る物語は良い物語ということで。

*1:てか、漫画は先に進んでるのだろうが、それについては全くの未読なのですでに見当違いかもしれません

The Lives Of Others(善き人のためのソナタ)

昨日視ました。英語の勉強と思って視たら、今度はドイツ語だったのでまたビビりました。

この映画、個人的には本気で良い映画だと思ったので、英語字幕で視たことを後悔しました…。いまいちちゃんと理解しているか不安です。日本語字幕でもう一回視るレベル。とりあえず以下すべて完全にネタバレなので、まだ視てない人にはぜひこの記事を読む前に視てほしいというか別に映画を視ればこの記事を読む必要はない

 

あらすじ(ネタバレ込み)。舞台はベルリンの壁崩壊前の東ドイツ。主人公は秘密警察Stasi(シュタージ)の工作員であるヴィースラー。彼はスパイ活動や尋問において高いスキルを持ち、社会主義に忠誠を誓っている。その理想のためには非人道的な尋問も辞さない。彼が今回与えられた任務は、反体制と疑われる劇作家のドライマンとその恋人で女優でもあるクリスタを24時間監視し、反体制的であるという証拠を掴むこと。当初は忠実に任務を遂行していたヴィースラーだが、この任務を通じて、自分の理想とは乖離した体制の幹部たちの身勝手さを知り、また盗聴を通じて二人の監視対象者の人間らしい生き様、あるいは芸術家としての生き様を知ることで、徐々に心動かされていく。ある日、ドライマンの友人の芸術家が、体制の弾圧が原因で自殺をした。ドライマンは悲しみに暮れながら、彼がくれたピアノ曲の譜面「善き人のためのソナタ」を自宅のピアノで演奏する。ヴィースラーは、その曲を聴きながら、感動のあまり監視室で一人涙を流すのだった。ドライマンはリベラル派だが、体制に対しては比較的穏健派だった。しかし、友人の自殺を機に、反体制の行動を起こすことを決意する。それは、数年前から国が秘匿するようになった自殺の件数に関する記事を匿名で書くことだった。この記事が出版されたことで政府は激怒し、かならず犯人を見つけ出すようにシュタージに命令する。ヴィースラーは、二人を救うために虚偽の報告を行う。しかし、ドライマンの恋人クリスタは、薬物所持の容疑で拘束され、女優としての今後の人生のために、記事を書いたのはドライマンであると証言し、証拠となるタイプライターの場所も白状する。ヴィースラーはそのライプライターも隠蔽したため、結局ドライマンは潔白となる。しかし、クリスタは自責の念から自殺し、それを目の当たりにしたヴィースラーは、「死ぬ必要はなかったのに」と呆然とする。ヴィースラーは非常に優秀だったため、これらの隠蔽活動の証拠はなく、責任を問われることはない。しかし上司は疑いの目を向けていたため、彼は閑職に追いやられる。時は過ぎてベルリンの壁が崩壊。ドライマンは、自らがどのように諜報活動をされていたのかを情報開示請求する。そこで、HGW XX7というコードネームの工作員が、自分をかばっていてくれたことを知る。それからしばらく後のある日。チラシのポスティングの仕事に身をやつしたヴィースラーは、書店でドライマンの新著「善き人のためのソナタ」という本が発売されていることを知る。ページをめくるとそこには、「感謝を込めてHGW XX7に捧ぐ」と書かれていた。

 

繰り返しますが、本気で良い映画だと思いました。良いと思った点、なかなか現段階ではまとめずらい(もう一周ぐらい視て整理したいところ)ですが、とりあえず以下の通りです。

まずは主人公ヴィースラーの人間臭いところですかねぇ。というか、誰しも人間臭い面はあると思うのですが、この映画ではそれをドライマンとクリスタという真逆の人間像とのコントラストから浮彫にすることで効果的に描き出している、と言った方がいいでしょうか。ヴィースラーは見た目は生真面目でクスリとも笑わないザ・ドイツ人て感じの人です。仕事一筋で生きてきたから家族も恋人もいません。彼は盗聴でドライマンとクリスタの愛と人間味溢れる生活を目の当たりにする訳ですが、仕事から帰るとガランとした殺風景な家でテレビをみながら一人寂しくクソ不味そうな飯を食ってるんですよね。このシーン、彼は無言で無表情なのですが、画面から滲みでる雰囲気が、彼の心に潜む寂しさを語っているんですよね。それにこの人、職業人としてはかなり優秀ですが、ドライマンとクリスタの愛に満ちたセックスを見たあとにデリヘル呼んだ上、「もう少しいてくれ」と粘った挙句断られてしまったり、なんとも言えない不器用さもあるのです。かと思えば、ドライマンたちの反体制活動を察知したときは「今回だけだぞ…!」とか何となくツンデレっぽいセリフを吐きながらその記録を隠蔽したりします。そうした、ダメな面も含めた色々な人間臭い側面を備えつつ、一方で、芸術や他人の生き方に心動かされる面や、結果を顧みず自分の信じたことをやり遂げようとする面など、善き人たる条件をしっかり兼ね備えているからこそ、魅力のある人物像になっているのだと思います。

次に、印象的なシーン・セリフが非常に多い。挙げていくときりがないです。まず、当然ながら、ヴィースラーが盗聴器で「善き人のためのソナタ」聞いて涙するシーンは美しく、印象的です。他にも、ヴィースラーが、エレベーターの中で、近所の子供が「お父さんがシュタージは悪い人だって言ってた」と言ったことに対し、これまでであれば父親の名前を聞いて拘束するところですが、思いとどまるシーンも、今後の彼の行動指針を決定づけるという意味で印象的でした。また、クリスタが大臣に夜の相手をさせられに行くときに、ヴィースラーが単なるファンを装って呼び止めて、行かない様に説得するシーンも、え、介入するんかい!と驚きました。そこでのセリフ回しもなかなか興味深く、ヴィースラーが「audienceがいることを忘れるな」という発言をするのですが、これは表面上の意味では「ファンがいることを忘れるな」、という意味ですが、真の意味としては、「(あなたの生活を盗聴している)audienceである自分は、あなたの生き方に共感しているのだから、それを曲げるようなことはしないでほしい」ということだと解釈しました。それに、このシーンで、真摯に説得するヴィースラーにクリスタが「あなたは善い人(a good man)ね」というシーンがあるんですが、このセリフだけですべてを了解できるほんとにいいセリフだと思いました。ついでにこのシーン、バーで机を挟んで行われるのですが、さらにシビれることに、終盤の方で、今度はヴィースラーが尋問官としてクリスタと机を挟んで向かい合うことになるんですよね。こういうのめっちゃ好き。また、ベルリンの壁崩壊後にドライマンがヴィースラー(HGW XX7)を探しに行って、見つけたけど遠巻きにみるだけで会話を交わさずに去っていくシーンもグッときますね。会わない理由は色々考えられますが(身をやつしたヴィースラーを気遣ったとか、もともと盗聴する側とされる側だから会わないのが適当だと判断したとか)、結局二人は一度も会話を交わすことなく、本の献辞で感謝の気持ちを伝えるというかっこよすぎる展開。そして何より最高の視聴後感を与えてくれるのが、最後の本屋のシーン。「善き人のためのソナタ」をレジに持って行ったヴィースラーが、「贈り物用に包みますか?」と聞かれ、「いや、それは私のための本だ」と答えてエンドロールなのですが、お前これやりたかっただけやろ的な最高のシーンですね。この時のヴィースラーの表情がまた絶妙なんですよ。ずーっと無表情のヴィースラーは、この瞬間も普通に店員からみれば無表情なんです。でも、二時間以上ヴィースラーをみてきた僕たちは、この時の表情の微妙な変化、すなわちヴィースラーの喜びや誇りのような感情が読み取れてしまうんですよ。まるで長門有希ちゃんの表情を読めるようになったキョンくんのような心境ですね!

さらに言えば、主題が良い。主題をちゃんと捉えられているか知らんけど。「善き人のためのソナタ」を聞いてヴィースラーが涙を流すシーンに象徴されるように、芸術は人の生き方を揺さぶる、という主張は含まれているでしょう。実際、このシーンでドライマンが、「レーニンはベートーベンのソナタを、『これを聴くと革命が出来なくなる』と嫌ったという。この曲を真に聞いた人は悪人にはなれない。」といってますしね。ただ、私としては、それも含めて、他人の生き様がほかの人の生き方を揺さぶるというより大きい方に解釈しました。ストーリー的にも、芸術という面のみならず、ヴィースラーはドライマンとクリスタの生き方そのものに共鳴しているように思えますし、何よりタイトルが「独: Das Leben der Anderen、 英: The Lives of Others」ですし。あとついでに、これは完全に僕の独断と偏見で妄想し過ぎ感あってのちに撤回する可能性も多いにありますが、最後のシーンの僕なりの解釈があります。それは、「"No, it's for me."(いや、それは私のための本だ)」というセリフの解釈です。単純な解釈は、先ほど述べたとおり、献辞に書かれたようにこれは自分のためにドライマンが書いてくれた本だ、という意味になるでしょう。しかし、僕にはさらに隠れた意味があるように思えるのです。この物語で一貫して、ヴィースラーはドライマンとクリスタの生き様を視ているだけの傍観者でした(それであるがゆえにThe Lives Of Others)。しかし彼は、その生き様に共感し、自らの信じる道を歩み、様々な代償やリスクを顧みずに行動しました。その結果残ったものは、所詮は他人の物語(The Lives Of Others)なのでしょうか。その問いに対するヴィースラーの答えが、"No, it's for me."だと思うのです。そう、彼は彼で、彼の生き様を、彼の人生を生き切ったのです。善き人のためのソナタという本は、ヴィースラーの生き様の結晶、あるいは人生そのもの象徴のように思えます。そしてそれは、他人のための何者でもなく、彼自身のためのものなのです。

 

視たことない人にはぜひおすすめです(この記事読んだら全部ネタバレしてますけどね)。自分の中でもこの一年間に視た映画トップ10には余裕で入るぐらいの作品です。ま、別にこの一年間で10本も映画視てないですけど。

 

以上

統計学と計量経済学は何が違うのか

大学で経済を学んだりすると、統計学計量経済学って何が違うんだろうという問いにしばしばぶち当たりますよね(?)そこで今回は、統計学と比較したときの計量経済学の特徴について、私なりの理解をここで開陳したいと思います。

先に断っておくと、現代では統計学計量経済学もオーバーラップする領域が非常に多く、境界はより曖昧になっていて、両者を明確に切り分けることは難しいです。ここで述べる両者の違いは、伝統的な(あるいは古典的な)統計学計量経済学のアプローチの違いについて述べたものです。また、両領域のすべてに当てはまる一般原則というわけでもありませんのであしからず。

 

さて、統計学計量経済学の大きな違いは何でしょうか。単純化して言うと、統計学実験結果を解釈するのに用いられる*1一方で、計量経済学実験不可能な事象を解釈するのに用いられる点です。現代統計学の確立者の一人であるロナルド・フィッシャーが提唱した、適切に実験結果を統計処理するための実験計画の要件は以下の3点です:①局所管理化(調べたい要因以外を同じ条件にする。いわゆるコントロール)、②反復、③無作為化。逆に言えば、物理学や生物学などの実験科学においては、このような実験(experiment)が可能であるので、統計学をそのまま適用できるのです。一方で、分析対象が経済となった場合、一般的にはこのような理想的な実験は不可能です。経済を分析する際に出来るのは観測(observation)だけです*2

経済分析が実験科学と異なる最も根本的な要因はこのような実験(experiment)か、観測(observation)かという点ですが、では、この違いが経済分析にもたらす最も深刻な問題は何でしょうか。それは、内生性(と識別)の問題だと私は思います(これがこの記事の結論部分です)*3計量経済学が存在する重要な理由の一つは、内生成にどう対処していくかという点にあるのです*4。実験科学においては、調査したい要因について、外生的に変化を与えることが出来ます。ある薬が動物に利くか調べるときに、実験する側は動物の要因とは関係なく、好きなように薬の投与量を操作することが出来るのです。一方で、経済の場合は、ある経済変数の変化は、その変数が単体で突然変化している場合はまれで、他の変数の変化も影響している場合が多く、外生的な変動を取り出すのは困難なのです(内生性の問題の具体例と、それがどうして問題なのかは、この記事の真ん中の方を読んでください。→財政乗数はわからない - 経済・文化評論室

内生性に対処するために、経済学者たちはいろいろ頭を捻ってきました。代表的なものでいえば、操作変数法やGMM。固定効果モデルも内生性への対処の一つと言えます。VARまでモデルの範囲を広げてみれば、コレスキーオーダリング、符号制約、長期制約…などこれまた様々なショックの識別法があります。そして、重要な点として、こうした識別法の多くは、経済変数同士の因果関係について一定の仮定を置く場合が多いのですが(例えばAはBに影響を与えるが、BはAに影響を与えない、等)、これらの仮定は経済学の理論モデルの結論に基づいて正当化されることが多いです。これこそが、計量経済学理論経済学という領域の近接領域である理由、もっと言ってしまうと、統計学ではなく(広く)経済学の一分野であることの理由の一つなのではないかと思います。

 

以上

*1:当然、実験データの処理以外にも、統計学には社会統計をどう作るかというような古くからの問題意識もあります。ここではわかりやすいように単純化して議論してます。

*2:もちろん、最近では経済実験のような研究が行われたり、ほかにも開発経済学の分野でRCTが使われたりしてるので、実験科学っぽい面もありますよね。

*3:普通に統計学に交絡という同様の概念がありますけどね。

*4:まぁほかにも時系列処理への強い関心とかいろいろありますが…。

米国株下落の背景と金融不均衡

今回の米国株の急速な下落の背景について、なるほどなぁと思ったことがあったので、感想と併せてメモ。

 

そもそものトリガーとされるのは、予想以上に好調だった雇用統計です。ただ、特にリーマンショック以降のFEDの金融緩和期において、景気指標が良いときに株価が下がるというのは割とよくあるパターンですよね。直感的には、景気が良い→株高!という風に動きそうなものですが、マーケットが金融緩和に依存しているような時期では特に、景気が良い→緩和引き締め(今回は利上げペースの加速)期待→株価下落という流れが生じるわけです。

むしろ今回驚くのは、トリガー云々というよりは、ここまでモデレートに良い感じに株価が上がり続けてきたところで、突然大幅に株価が大幅に下げたことでしょう。ここしばらく、米国株は特に大きな振れもなく緩やかに上昇を続けてきました。経済の世界で割とよく使われる言葉でゴルディロック*1(適温)経済というものがありますが、まさにここしばらくは、軟調でなくボラも低く加熱もし過ぎない適度なゴルディロック相場が形成されてきたわけです。

では、今回の急激な下落の原因は何なのでしょうか。

Shorting volatility: its role in the stocks sell-off

https://www.ft.com/content/839c4d5c-0afb-11e8-8eb7-42f857ea9f09

このFT記事に大体書いてあるんですが、あまりマーケットに馴染みのない人(僕も特に馴染みはありませんが)にもわかるようにかいつまんで今回の状況をまとめます。まず、ご存知の方も多いと思いますが市場にはVIXという商品があります。これは、市場(株)のボラティリティ(振れの大きさ)を指数化したもので、VIXを持ってる人(細かく言えばVIXに連動するデリバティブを用いてボラティリティをロングしている人)は"市場が荒れる"方にベットしている状態なので、市場のボラが上がれば上がるほど得するわけです。しかしながら、上述の通り、ここしばらくの米国株市場は低ボラティリティ(かつ低イールド)の環境で推移してきましたので、機関投資家たちは、VIXをショートして、ボラティリティが低い(市場が荒れない)方にベットしまくってきた訳です。しかし、この状況は、ボラティリティが何かの要因でスパイクしたときにフィードバックループを起こします。すなわち、ボラティリティ上昇→ボラティリティのショートポジションを解消する(市場が荒れる方向にベットする)→ボラティリティ上昇...というループが生まれるのです。このループに際して株が売られるので、株価も併せて急速に下がって行きます。こうした急速なボラティリティショートポジションの巻き戻しが起こった結果、VIXはこんな動きをしています。

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 同時に、今回このループが加速した背景に、リスクパリティ投資の役割を挙げる向きもあります。投資家は様々な資産に分散投資を行うので、どういう資産にどれだけ投資するのか(アセットアロケーション)、という戦略が非常に重要です。古めかしい戦略では資産の価格に注目してアロケーションを考えていた訳ですが、リスクパリティ投資では、ボラティリティに注目して投資を決めるのです。ざっくり言うと、トータルのボラティリティの目標を15%としていたときに、株のボラティリティが20%で債権のボラティリティが10%だとしたら、株と債券を50%ずつの割合で保有すればよいわけです。では、今回の様に株のボラティリティが急激に上昇したらどうなるでしょうか?トータルの目標のボラティリティが決まってる以上、株の割合を下げるようにリバランスしなくてはいけません。つまり、株を売るのです。するとさらに株価は下落してボラティリティが上昇して…とまたしてもループが発生しますね。

 

まぁ以上のようなメカニズムがあって大幅に株式市場が動いたわけですが、金融市場のトレーディングとは無縁な人間ではありますが、個人的に思ったことは、どんな状況であっても、放っておくと金融不均衡は溜まっていくのだなぁということです。今回金融不均衡が溜まっていったのは冒頭述べたようなゴルディロックな相場環境です。低ボラティリティで堅調に株価が推移していく…という一見すると理想的で文句が無いような状況でも、積もり過ぎたボラティリティのショートポジションというマグマが溜まっていた、というのは興味深い話です。あえてワンピースのOP(Folder5のBelieveのとき)のセリフ風にいうと、「人々が収益機会を求める限り、市場は決して留まることはない!」って感じですかね(?)監督当局は、たとえどんなによさげな局面においても不均衡に目を光らせる必要がありそうです。

その一方で、今回問題起こしてるデリバティブは結構複雑で、この複雑さが監督を難しくしているじゃないかなぁというような印象も持ちます。上の方の説明では簡単化してVIXそのものを売り買いしているように書きましたが、現実にはトレーダーたちはデリバティブを用いてボラティリティの売り買いをしているのです。今回大暴れしたデリバティブは、クレディスイスが発行しているVelocityShares Daily Inverse VIX Short-Term ETN(通称XIV)と呼ばれる金融商品です。これを買うとボラティリティをショート出来ます。これのデリバティブがどうやって出来ているのか順を追ってみてみましょう。まず、先ほど述べた通りVIX自体は単なるボラティリティの取引できないのですが、株のオプション(これも既にデリバティブ)を使ってVIX先物というものが作られて取引されています。さらに、複数のVIXの先物を組み合わせてVIX短期先物指数という指数が作られます。そして、このVIX短期先物指数のショートポジションをベンチマークに(同じ動きをするように)先物ポートフォリオを組成して、証券化して細切れにしてみんなに売る…という流れです。この記事(The Short Volatility Trade Implodes - A "2018 Flash Crash" Post-Mortem)から引用すると、

In other words, traders were, often unwittingly, aggressively trading a derivative (the VIX futures) of a derivative (the VIX itself), of a derivative (options implied volatility), of a derivative (the price changes in the S&P 500), with each derivative layer adding an element of leverage to the trade.

こういう感じですから。まぁトレードしてるプロにとっては仕組み自体は複雑ではないのかもしれないですけど、マクロでみてリスクがどこにどれだけあるかといったことを見る必要がある監督側からすれば、複雑性が増しているのは間違いないでしょう。ていうか、金融不均衡ってたいていこういう「わけわからんけどなんか今はめっちゃ儲かる」みたいなものを投資家がよくわからずにハイレバでどんどん買ってくから溜まるってイメージなんですけど、リーマンショックの教訓とは何だったのか?感もあります。(とはいえ、今回の件が特にそんな大きな問題になってないのも、リーマンショック後の当局や金融関係者の努力で金融システムのレジリエンスが高まっているからとも言えるので、当然リーマンショックの教訓は生かされているのでしょう。あと、VIX先物等の登場でボラティリティが取引出来るようになったことで、マーケット全体でみてより効率的な資源配分が達成されてることも全く否定しません)。

 

いずれにせよ火曜日になって米国株価持ち直してるみたいなのでよかったですけどね。

 

以上

*1:日本人には全く馴染みがない話ですが、ゴルディロックという少女が3匹の熊の家で適温のスープを飲むとかいう意味不明の童話がもとになっています。

適当中華風野菜炒め

自分用メモ 余った野菜、ソーセージ、ニンニク3片

ごま油、ウェイパー小さじ1、醤油適量、塩適量、こしょう適量

上記を強火で一気に焼く。

 

何も考えずに作っても美味くなるからウェイパーは偉大である。しかし、上記分量で作ると、序盤は美味いのだが、割としつこいお味なので後半キツくなってくる

ウェイパーのインストラクションによると、ウェイパー小さじ1単体で野菜炒めの味付けは十分のようなので、今回はそれに醤油も塩も胡椒も入れてるのでしつこくて当然である。また、肉も入れてるのでそこからうまみも出てるので、追加のうまみは少なくてよいと感じた。次回はウェイパー少な目で作ろうと思う。あと、ニンニク大好き厨なので、次回はさらにニンニクを増やしたい。

 

今日の料理格言「味見は三度

一口目はどうしても濃い方がおいしく感じてしまうので、味見が一度だけだと濃い味にしてしまいがちである。味見は三度して、味を濃くし過ぎないようにという戒めの言葉。

 

P.S.

ちなみにソーセージは、JohnsonvilleのSmoked Bratsを使用した。これがなかなかイケます。ま、日本のソーセージの方が美味いけどな!