経済・文化評論室

エコノミストであり、物語を愛するヲタクでもある。

財政乗数はわからない

経済・文化評論室と名付けた割に、経済の記事が一つもないのでとりあえず思いつきでかきます(誰でも読める内容です)。

経済の用語には財政乗数というものがあります。これは、国が公共事業などを行って支出を増やすことで景気を良くしようという財政政策が、実際どのくらい景気を押し上げる効果があるか、という数字で、政府の政策決定上非常に大切な概念です。この用語に関して僕が思い出すのは、民主党政権時代に当時財務相だった菅直人乗数効果(=財政乗数)が何なのか知らなかった、という件ですね。そのときの私は、財政を司る財務相の大臣がそんなことも知らねーのかwwwという感想を持ったことを覚えています。

まあ政策担当者(それも財務省)が財政乗数を概念として知らないのはまずいのですが、よくよく考えてみると、本当に財政乗数がどれぐらいなのか、ということを推計するのは非常に難しく、例えばアメリカなんかをみても、その数字に関してはコンセンサスがないというのが実情です。

 

なんで財政政策の効果を図るのが難しいのか、ということを考える前に、財政乗数が何なのか、少しおさらいしましょう。

国民経済計算=GDPの集計上は、国の財政支出が1兆円増えれば、GDPの「政府支出」の項目が1兆円増えます。"集計上は"、一見すると、それでGDPが1兆増えて終わりのように見えます。しかし、経済学はこれで終わりとは考えません。例えば政府が1兆円公共事業を増やせば、コンクリート会社や建設労働者などそれによって潤う人々がいます。その人たちが増加した所得の一定割合を支出することで、GDPはさらに増えます。何かものを買ったり外食したりするかもしれません*1。そうすると今度は、商店やレストランも潤います。それで潤った人々もさらにその一部を支出して…と連鎖していくことで、政府は1兆円しか支出を増加していないけれど、実際の経済効果は1.5兆円あったりするわけです。この場合、財政乗数は1.5です。

一方で、財政政策の効果を考えるにあたっては、このようなポジティブな連鎖のみならず、他の経済活動を押し下げる効果を持つことも考えなくてはいけません。これは、政府の需要が増加することで、他の需要を押しのけてしまう作用のことであり、一般にクラウディングアウトと呼ばれます*2。この効果について今の日本で具体的に考えると、例えば政府が公共事業を増加させると、ただでさえ人手不足(特に労働集約的な建設業においては顕著)が深刻化している中で、公共事業が建設労働者を吸収することで、民間における建設投資を抑圧することになります(人手が足りなくて工事できない!)。

まぁこんな感じにネガティブな面もあったり、ポジティブな連鎖も実はほとんど起きなかったり(先述例でいえば潤った建設労働者が増えた給料をみんな貯金に回したり)よ財政乗数というものは、1より小さかったりということも全然ありえるわけです。

 

さて、財政乗数とは何か、ということを思い出したところで、次は財政乗数の計測上の問題について考えていきましょう。こういう問題(=財政乗数の推計)を考えるときに経済学者はどうするでしょうか?ごく簡単に言えば、次のような式のβを回帰分析*3によって推計することになります。

GDPの変化幅)= β(政府支出の変化幅)

2つの変数の相関をとってるようなものですね。例えばβ=1.5であれば、政府支出を1兆増やせばGDPが1.5兆円増えるということなので、財政乗数は1.5ということになります。なーんだ、超簡単に推計できるじゃねーか!

いやいや、ちょっと待って下さい。ことはそんなに単純ではない。この推計、深刻な問題があります。政府支出が増加したとき、GDPが増加する。ふむ、この因果関係はよいでしょう。この関係は、政府支出の増加とGDPの増加に正相関をもたらしそうです。しかーし!!実は、GDPが減少したときに政府支出が増加するという逆方向の因果関係もあります。これは、景気が悪くなると政府が経済対策を打って財政支出を拡大するためです*4。この関係は、2つの変数の間に負相関をもたらす方向に作用します。僕が欲しいのは、前者の「政府支出が増加→GDPが増加」という因果関係に関する効果の大きさだけなのに、データの中には後者の負の因果関係の影響が含まれているため、正しく前者の効果だけを推計することはできません*5

 (このパラグラフはややマニアックですが、)この問題に対して、経済学者たちは色々と試行錯誤をして解決を試みてきました。すごいざっくり言ってしまうと、上述の問題点を排除するには、「景気が悪化→政府支出拡大」という因果関係の部分のデータを捨ててしまえば良いのです。具体的な一つの方法論は、日本ではできませんが、戦費拡大のデータを使うという方法です*6。戦費の拡大は、対外情勢の悪化など、景気の良しあしとは無関係に行われると考えれば、「景気が悪化→政府支出拡大」という因果を含んでいないと考えられ、「政府支出が増加→GDPが増加」という効果だけを純粋に図ることが可能と考えられます。もう一つの方法は、より時点を細かく区切ったデータを用いるという考え方です*7。すなわち、いくら機動的な政府であっても、今月景気が悪くなったとして、いきなり補正予算を組んで財政支出を増やすことはできないので、細かくみていけば2つの因果関係を切り分けることが出来るという考え方です。

さて、このように経済学者は色々な工夫をしてきました。しかしながら、残念なことに、冒頭述べた通り、経済学者がこぞって分析をしているアメリカにおいても、財政乗数がいくらか、というコンセンサスはありません。米国については、前大統領のバラク・オバマ率いる分析チームは財政乗数1.5を主張している一方で、著名な経済学者であるBarroは財政乗数0を主張するなど*8、幅も非常に大きいことがわかります。これは、上述手法においてもなお、さまざまな問題点があることの証左にほかなりません。実は、財政乗数の計測は、上手い手法を見つければそのままトップジャーナルに乗せられるほど、まだまだ発展途上の課題なのです。

 

財政乗数についてつらつらと書き連ねてきましたが、これを踏まえて思うことがいくつかあります。まずもって思うのは、現状の経済学の無力さです。「財政政策の効果はいかほどか?」という、政策決定上極めて決定的な問いにすら、今のところの経済学は回答を与えることが出来ません。明確な回答ができないがゆえに、経済学が政治的都合により恣意的に運用されてしまう危険性も高いわけです。こうした現状はとても残念なことだと言わざるを得ません。今後様々なデータの利用可能性の向上や推計手法の向上により、精度を高めていくことを期待していきたいです。

もう一つは、自分への戒めというのみならず、皆さまにもぜひ心に留めて頂きたいのですが、単純な回帰分析や相関を持ち出して強硬な主張をする輩には気を付けて欲しいということです。経済の様々な数字の動きは、上の財政乗数の例にもみられるとおり、複数の因果関係が織り成すものです。単純な散布図とそこにひかれた直線を見せられたときは、他に隠れた因果関係が存在しないか気を付けることが重要なのだと思います。

 

以上

*1:この場合、GDPの集計上は個人消費が増加することになります。

*2:経済学の教育を受けている人なら誰でも知っている通り、最も教科書的な説明は、政府需要の増加が金利を上昇させて他の需要を抑制するという効果のことですね(いわゆるIS-LM分析)。

*3:だれでも読めるといった割に回帰分析は知っていなくてはいけないという。

*4:直近の大型経済対策は2016年度二次補正

*5:専門用語でこのような問題を「内生成の問題」あるいは「同時性の問題」などと言います。

*6:Barro(1981) "Output Effects of Government Purchases," JPEなど

*7:財政乗数推計のデファクトスタンダードと呼べる手法で、Blanchard and Perotti(2002) "An Empirical Characterization of the Dynamic Effects of Changes in Government Spending," QJEで提唱されました。

*8:両数字についてはBarroのこの記事から得ました。

https://scholar.harvard.edu/barro/files/09_02_voodoomultipliers_economistsvoice.pdf