経済・文化評論室

エコノミストであり、物語を愛するヲタクでもある。

超読解・少女☆歌劇 レヴュースタァライト(第9話)

スタァライトの超読解(感想)の続きで、第9話です。

 

1~8話まではこちら↓

 

第9話は長くなりそうなので、独立した記事として書きます。個人的に神回揃いのスタァライトの中でも特に素晴らしい回だと思っています。セリフがどれも重要なので、MC漢風に言えば「一言一句リリック(セリフ)聞き逃すな」という感じですね。

 (以下ではアニメのキャプチャ画像を載せていますが、著作権法32条1項と文化庁ガイドラインに鑑み、引用に該当すると考えて掲載を行っています。また、英字字幕が出ていますが、違法視聴ではなくHIDIVEという海外ストリーミングサイトで課金して視聴しています) 

 

早速時系列でみていきましょう。

新しいスタァライトの脚本が上がったところから始まります。

雨宮「A組のみんなが頑張っているのをみたら、私たちB組も負けてらんないからね」

さて、このセリフの解釈ですが、「A組のみんなが頑張ってる」というのはレヴューを通じて再生産された面々の姿をみた雨宮さんの感想だと考えられます。

f:id:neehing:20190509134238p:plain

©Project Revue Starlight

それを象徴するのがこのカット。余計なセリフは一切なしで、以前はキャストから降ろされた香子が雨宮さんと目があうだけですが、これだけでB組からの香子の評価の変化がわかります。

後ほど、大場ななが第100回聖翔祭の脚本を指して「こんな脚本知らない」と言うわけですが、これまでのループではメンバーたちの再生産が発生しないので、雨宮さんが彼女たちに刺激されて脚本作成を急ぐことも発生しないということになり、本当に第100回の脚本はこのループで初めて書き上げられたと考えられます。

さて、新脚本の読み合わせです。華恋が絶望の女神のセリフを読み上げます。

f:id:neehing:20190509134503p:plain

©Project Revue Starlight

華恋(絶望の女神)「お前たちは幸福だ。自分たちの犯した罪、必ず訪れる悲劇を知らぬのだから」

注意深い視聴者の皆さまが覚えている通り、絶望の女神は大場ななの役ですので、これは当然大場ななの心境を代弁しているセリフです。

そしてここから、みんなで寄ってたかって大場ななの命題である「無限の繰り返し=無限の停滞」を否定します。

星見「人生は二度繰り返される物語の様に退屈である」

天堂「人生は一度きり。同じ物語を繰り返すだけではつまらない。だから退屈しないよう色々なものに挑戦すべき」

 星見純那が話題を出して、さらに天堂さんもいつもの様に簡潔に述べてくれていますね。いつもだったら「ノンノンだよ」するのは華恋の役回りですが、大場ななはここで全員からノンノンされているのがある意味で特徴的です。前回の孤独のレヴューでも述べましたが、大場ななには「無限の繰り返し」に加えて「孤独」という主題も通底音の様に存在しているのですが、彼女の命題が全員に否定されているこの状況も、彼女の孤独を浮彫にしています。

さらに、大場ななの孤独を理解する上で非常に重要だと考えられるのがこの中学生時代の回想シーンです。

f:id:neehing:20190509134652p:plain

©Project Revue Starlight

大場ななが他のメンバーと比較して特異なのは、過去のトラウマティックなエピソードが唯一描かれている点です*1。中学時代、大場ななは舞台への情熱に目覚めましたが、他の部活と掛け持ちしていたメンバーが全員去り、文化祭での上演が叶いませんでした。ここで、大場ななの孤独に対するトラウマが生まれたと考えられます。

よく考えてみてください。いくら第99回聖翔祭が本当に素晴らしいものだと感じたとしても、それを無限に繰り返すということは常人のすることではありません。大場ななをそれに駆り立てたものは、本人も言うように「みんなを守らなくちゃ」という理由もあるとは思いますが、本当の根本には、この孤独に対するトラウマがあると考えられます。要は、第99回の聖翔祭が素晴らしいものであったがゆえに、未来へ進む勇気よりも、それを失ってまた孤独になる恐怖の方が勝ってしまっている状態が、今の大場ななである、ということです。それを良く表しているのが、続く次のセリフです。

f:id:neehing:20190509140306p:plain

©Project Revue Starlight

大場「私ね、ずっと一人だった。この学園に来て、本当の意味で一緒に舞台を作る仲間に出会った。舞台に立つことができたの。初めての舞台と最高の仲間。守らなくちゃ、私のスタァライト

そして始まるのが大場ななVS華恋の絆のレヴューです。もうこの時点で華恋勝利は必然だと思いますが、一応絆という主題に対する両者の差異を考えましょう。華恋は言わずもがな、第4話を経てひかりちゃんとの強固な絆があります。一方で大場ななは孤独というトラウマに囚われて、絆を信じ切れていません

大場「大嫌いよ、スタァライトなんて!仲良くなった相手と離れ離れになるあんな悲劇。だから私が守ってあげるの、守ってあげなくちゃいけないの。」

みんなが変わっていくことで「失うこと」、そして「孤独になること」の恐怖は、裏返してみれば仲間たちへのを真に信じ切っていないということでもあります。

f:id:neehing:20190509135005p:plain

©Project Revue Starlight

一方の華恋のセリフをみていきましょう。華恋は、第9話で散々否定されてきた大場ななの命題(無限の停滞)を、再びレヴューでもいつもの「ノンノン」で否定します。

華恋「ノンノンだよ、バナナ。舞台少女は日々進化中。同じ私たちも、同じ舞台もない。(後略)」

大場「ダメだよ華恋ちゃん。ダメ…」

華恋のセリフに対する大場ななの応答は「ダメ…」というだけで、もはや論理はありません。なぜなら、大場ななは孤独というトラウマにドライヴされて無限の繰り返しているので、背景にあるのは論理ではなく恐怖という感情だけだからです。当然のことながら、華恋が勝利してこのレヴューは終了します。

大場ななの陥っている状況が皮肉なのは、孤独というトラウマに駆られて無限の繰り返しをすることで、ループ者として、そして皆に反し停滞を選ぶものとして、逆に孤独になってしまっている、という状態です。この状況が解消されない限り、大場ななの再生産が完了することはありません。

華恋はレヴューを通じて「停滞」という命題を否定してみせましたが、それだけでは大場ななは再生産できないのです。そこで、彼女を再生産するのが最後のシーンに登場する星見純那です

まずもって重要なのは、偉人の言葉に並べて星見純那が自分の名乗り口上を述べるこのシーンです。

f:id:neehing:20190509135220p:plain

©Project Revue Starlight

もうこれだけで、大場ななの再生産は5割完了していると言えるでしょう。次の大場のセリフも重要です。

大場「こんな楽しい純那ちゃん、はじめて

この「はじめて」の重さ、わかるでしょうか。無限のループを繰り返して、散々色んな星見純那をみてきたはずの大場ななが、「こんな楽しい純那ちゃん」は「はじめて」なのです。なぜはじめてなのかは明らかで、ここで名乗り口上をあげた星見純那は、これまでのループには存在しなかった、再生産後の星見純那だからです。

「停滞」のアンチテーゼとして、再生産を経た星見純那の姿をみて大場ななは「変化」という価値観をここで受け入れたわけです。なので、続く彼女のセリフは、実は彼女が「変化」を肯定する心を持っていたことが明かされます。

大場「あの一年がもっと楽しく、もっと仲良くなれるようにって、再演の度に少しずつセリフをいじったり演出を加えたりした。(中略)だけど、新しい日は刺激的で、新しいみんなも魅力的で…。どうしたらいいかわからなくなって…」

大場ななの「停滞」の中にも実は「変化」が内在していた…というとまるで脱構築の図式の様ですね(?)。

そして、 星見純那が大場ななを抱きしめてこう言います。

f:id:neehing:20190509135633p:plain

©Project Revue Starlight

星見「だから…いっしょにつくろう。私たちで、次のスタァライト

このセリフ、完璧です。ここの星見純那のセリフはこれしかありえない。この記事で申し上げてきた通り、大場ななは「孤独」に対するトラウマを抱えていることが、「無限の停滞」に至る最も根本的な原因です。それを払しょくするには、「絆」を心から信じることが必要な訳です。言い換えるなら、変化があっても孤独に陥らないということ、仲良くなった相手と離れ離れにならないということ、よりきらめく未来を一緒に掴めるということを誰かが信じさせてあげなくてはいけないのです。

星見純那は、大場なながやって来たこと(無限ループ)を受け止めて彼女のループ者としての孤独を解消し、さらには再生産後の自分の姿を見せることで変化という命題を大場ななに受け入れさせるところまで辿り着きました。でも、これでもまだ足りない!

そこで、最後に彼女のトラウマを解消させたのが、抱きしめて言った上述のセリフなのです。「いっしょに」「次のスタァライトを作ろうと、抱きしめて言うことが決め手です。「いっしょに」がないとだめなのです。ここで、初めて大場ななは星見純那との絆を信じ切って、「孤独」という命題を乗り越えたのです。だから、このセリフの後に彼女は泣くのです。はい、ようやく再生産完了です。長かったですね。

 次の最後のセリフもまた良いですねえ。

星見「持っていこう。あなたが大切にしてきた時間、守ろうとしてくれたもの。全部持って行ってあげて。次の舞台に」

価値観レベルで言えば 「99回聖翔祭=停滞」VS「100回聖翔祭=変化」という二項対立な訳ですが、前者を否定するわけではなく、両者を合一していこうという弁証法的解決で幕を閉じます。

とりあえず物語の考察は以上です。改めて大場ななという存在を考えてみると、やはりこの物語の中ではかなり特異な存在と言えます。まず、前回の記事で言った通り「再生産(やり直し)」というこの物語全体が肯定する価値観に対して、そこに内在する負の側面(=無限の停滞)を提示しているという点で特異です。なぜ彼女だけが負の側面を受け持つのか、ということに関して言えば、第9話で明かされる通り、彼女だけがトラウマティックな過去を抱えているからです。よって、彼女の主題は「無限の停滞」に加えて「孤独への恐怖」というより深く多面的な要素を抱えているということになります。

そして、第9話のラストのシークエンスは、再生産後の星見純那の導きによって、大場なながこれらの主題を全てきっちりと乗り越えるという見事なものとなっています。そういう意味で、第9話は神回と言わざるを得ないというのが僕の結論となります。

ちなみに僕個人が神回だと思ってる第2、第4、第9話について調べてみたら、どれも絵コンテを切ってる人は小島正幸さんという方だそうです。しかもこの方はメイドインアビスの監督もされてるそうです。

 

おまけで、完全にこれは僕の荒唐無稽な妄想なのですが、前回の記事で僕は「ミロのヴィーナス=再生産前の大場なな」という珍説をブチ上げました。最後の一連のシーンなんですが上述の再生産完了のタイミングまでは、ミロのヴィーナスが画面に度々映りますが、再生産完了後(厳密には星見純那の口上後)は一切映らなくなります。大場ななの変化を象徴しているように思えるのですが、これも僕の珍説をサポートする材料になりませんかね?なりませんね。

 

もう一つすごくどうでもいい個人的な感想ですが、スタァライトの原作を読み合わせる華恋とひかりちゃんについて。

f:id:neehing:20190509135506p:plain

©Project Revue Starlight

華恋「親友のためなら、危険を顧みず、奇跡を起こそうとするフローラの勇気」

ひかり「記憶をなくしても、親友との約束は忘れなかったクレールの強さ」

初見のときぼーっとみてたらお互いのことを褒めてるのかと思ったら、ご案内のとおり華恋=フローラ、ひかり=クレールなので、お前ら自分のこと褒めてるのかい!と突っ込んでしまいました(笑)。まあ劇中劇との象徴レベルでの対応ということなので別によいのですが。

 

長くなりましたが以上です。

*1:ここではひかりちゃんのロンドンでの敗北はトラウマとはカウントしてません。

超読解・少女☆歌劇 レヴュースタァライト(第5話~第8話)

レヴュースタァライトの超読解(感想)の続きです。

keibun.hatenadiary.jp

前回の記事でも申し上げ通り、基本的にこの記事では、①物語の背後にある本質②アニメ上の象徴的演出の2点に軸を絞って、私が本作から"読んだ"ことを開陳していきたいと思います。

前回あまりにも長くなったので、反省してこの記事はコンパクトにすることを目指します。

 

(以下ではアニメのキャプチャ画像を載せていますが、著作権法32条1項と文化庁ガイドラインに鑑み、引用に該当すると考えて掲載を行っています。また、英字字幕が出ていますが、違法視聴ではなくHIDIVEという海外ストリーミングサイトで課金して視聴しています) 

 

第5話

成長するものと留まるものの対比。身近な人が急に成長していくときのリアルな反応って、この話のまひるちゃんとか次の話の香子とかだと個人的には思うので、割と感情移入してしまいます。

さて、この話の本質ですが、既に作中で概ね言語化されているので改めて言うことは少ないです。早速レヴューを見ていきましょう。嫉妬のレヴューにおいて、華恋とまひるちゃんは一体何の命題を戦わせているのでしょうか。結論から言えば、「まひるちゃんはきらめている」(華恋)VS「まひるちゃんはきらめいていない」(まひる)というかなり個人的な命題の戦いです。

このレヴューの勝敗に関してですが、後ほどわかる通りまひるちゃんは実際にはきらめいているので、華恋が勝利するのは必然です。また、華恋が勝利してまひるちゃんを導く(=再生産させる)上では、華恋自身が再生産後であるというのも絶対の必要条件でしょう。

これはレヴュー中の華恋のセリフを注意して繋いでいけばわかります。

「そう、思い出したの…舞台少女になったわけ。ひかりちゃんとの約束…わたしのスタァライトを」

「なりたいものがあったからこの学校に来たんでしょ」

まひるちゃんにもあるでしょう、まひるちゃんのスタァライトが」

このセリフを発言することが出来て、まひるちゃんのスタァライトを思い出させることが出来るのは、華恋自身が再生産を経て自分のスタァライトを思い出すことが出来たからです。ちなみにこの議論の論理的帰結として、ひかりちゃんが来ないほかのループでは華恋の再生産も起こらないので、連鎖的にまひるちゃんの再生産も起こらないだろうな…ということが分かります(先日の記事で書きませんでしたが似たような理由で星見純那の再生産も起きません)。

 次に象徴表現の方を見ていきましょう。誰でもわかる通り、この回では芋=まひるちゃんという一見すると酷な様な気もする象徴表現が用いられています。ただし、最後で芋がかなり魅力的に描かれてるので良しとしましょう。

個人的に印象深いというか重要だと思ってるのは次のカット(から続くシーケンス)です。

f:id:neehing:20190429062308p:plain

©Project Revue Starlight

なぜならば、このカット一つでまひるちゃんがきらめいているという事実が表現されているからです。テレビのインタビューでまひるちゃんが言う、なりたいスタァ像は次の通りです

「大切な人たちを笑顔に出来るようなあたたかいスタァになりたいです」

このカットではみんな芋で笑顔になっているのですが、この回では芋=まひるちゃんなので、この絵一枚でまひるちゃんは「大切な人たちを笑顔に出来る」ということが示されており、まひるちゃんはちゃんときらめいているという命題が肯定されているのです。

 また、印象深いセリフは、常に本質を端的に発言してくれる天堂真矢が芋を食べながら言う次のセリフです。

「朴訥とした外見に秘めた芳醇な味わい」

 これは芋を褒めて言ったセリフですが、つまりはまひるちゃんのことでもあるわけですね。

そして、最後のまひるちゃんのセリフも重要です。

「大切な人たちを幸せにしたいと思えば、何度でもきらめける

 僕個人の意見としては、このアニメ全体の根本的な主張・思想は「一度失敗しても(堕落しても、きらめきを失っても)もう一度やり直せるのだ(=再生産可能性)」というものだと考えています。前回の記事でも述べた通り、愛城華恋VS星見純那のレヴューでは、その根本的な命題について争っていたと解釈しています。そうした視点でまひるちゃんのこの最後のセリフをみると、まひるちゃんは第5話で再生産を経て、「何度でも再生産出来るんだ」というこの作品自体の根本的な主張に辿り着いた、と考えられます。さらに言えば、「大切な人たちを幸せにしたい」というのはまひるちゃんの"スタァライト"なので、このセリフをやや一般化して書き換えるなら「スタァライトを思い出せば、何度でも再生産出来る」となるのです。

 

余談ですが、序盤でひかりちゃんが言う「奪うとか…簡単に言わないで」というセリフも、二周目に視てようやくその意味が分かる味わい深いものですね。

 

 

第6話

正直あまり考察する箇所はないのですが、個人的には大好きなエピソードです。二回目以降は、「その代わり、うちが世界で一番きらめくところを、一番はじめにみせたるから」というセリフだけで泣けますね。

さて、第6話の本質を読み解くにあたって重要なのは、二度にわたって発言される「香子はわかっていない」というセリフです。

双葉「お前さ、なんにもわかってないな」

クロディーヌ「まぁ、いい機会かも。香子、わかってないから」

果たして、香子がわかってないこととは一体何なのでしょうか。実はこの答は明快で、いつも本質しか語らない天堂真矢が二度にわたって教えてくれます。

「追われ続ける運命…お互い、気が抜けませんね」

「追って来る者のため、応援してくれる者のため、最高の自分で居続けなければならない使命感」

香子は、「自分に憧れて、自分に追いつこうと血のにじむ努力をしながら追いかけてくる存在としての双葉」に気付いていないので、この命題の意味を理解していません。

香子「追いかけてなんて、こおへんわ」

そしてレビューです。約束のレヴューでは、最終的に香子が勝利するのですが、そもそも、なぜ頑張って努力をしてきた双葉ではなく香子が勝利するのでしょうか?

これは、「香子がいつ再生産を完了したか」という論点に行きつくと思います。結論から言えば、やや珍しい形ではありますが、約束のレヴューではレヴュー最中に既に香子が再生産されているのです。再生産後の香子だから双葉に勝利できた…という構図になっていると考えられます。

重要なのは双葉の次のセリフです。

「約束しただろ…お前が世界で一番きらめくところを、一番はじめにみせてくれるって。だから、ずっとお前を追いかけて来たんだ

恐らくですが、双葉がこのセリフで明示的に「私はお前を追いかけてきた」と宣言した時点で香子は追いかけてくる存在としての双葉をしっかりと認識して、先ほどの天堂真矢に提示された命題を受け入れていると思います。 さらにダメ押し的に、香子が自分のボタンを刎ねようとするのを双葉が止めたことで、香子の再生産は完了しています。ので、続く香子のセリフは次の通りです。

「追って来る者のため、応援してくれる者のため、うちは最高の自分で居続けんとあかんのやね」

はい、完全に命題を受け入れてますね。再生産済です。

f:id:neehing:20190429122819p:plain

©Project Revue Starlight

ちなみに荻窪駅のこのホーム(一番線)は東京行きとは真逆の総武線三鷹方面しかこないので、香子は本当に遠回りしたのでしょうね。

 

第7話

全12話中、唯一キャラクターの名前を冠するこのエピソード。大場ななというキャラクターは明らかに作中で特別な存在と考えられるのですが、ここで僕の大場なな論を開陳させて頂きたいと思います。

まずその前に、このアニメに限った話ではない物語の一般論を説明させて下さい。物語というものは、メッセージとしてある価値観・命題を提示するものですが、深い物語はその命題が一方的に正しいという様に描くのではなく、その命題の負の側面もちゃんと描きます。というよりも、負の側面もない圧倒的に正しいことは主張する必要が無いのです。意見の分かれる多面性のある命題に対して、物語は一つの結論をだします。

ではこのアニメの根本的なメッセージ=命題は何なのでしょうか。当ブログでも何度か触れてきましたが、僕の意見で根本的な命題は「再生産=やりなおし可能性」だと思っています。例えば、前の記事で書いた通り、僕の理解では、もともとの星見純那は一度失ったら二度とやり直せないという強迫観念があって、愛城華恋とのレヴューを経て「やりなおせる」ということに気付きます。他のキャラクターも、一度はきらめきを見失いますが、何度でも舞台少女は再生産出来る…ということを証明していくのです。

このアニメの根本命題が「再生産可能性(やりなおせる)」であるという前提に立った時、この命題の負の側面は何なのでしょうか。実はこれこそが、大場ななが背負っている主題です。再生産・やりなおしという価値観が含む危うい側面・負の側面。それは、「同じことを繰り返し再生産してやりなおす」という行為がもたらす無限の停滞です。

なぜ大場ななだけがエピソードタイトルになっているのか?なぜ大場ななのエピソードだけが3話またぎになっているのか?それは、大場ななが極めて重要なキャラクターだからです。なぜ極めて重要なのか。それは、他の全てのキャラクターたちがこのアニメの根本命題の正の側面を描いているのに対して、唯一大場なな一人だけが負の側面を描いているからです。大場ななの主題は、このアニメの提示する価値観の根幹に関わるものなのです。

 

 さて、僕が大場ななについて本質的に言いたいことは上で済んでしまったので、七話自体については細かい象徴表現を少し指摘するだけに留めておきましょう。

まず、キリンと初めて対峙したときに、大場ななの後ろにある倒れた星摘みの塔。これは皆さんお分かりの通り、倉庫に眠っている星摘みの塔のことであり、第99回のスタァライト講演自体の象徴ですね(下段図は第9話から)。

f:id:neehing:20190502004727p:plain

f:id:neehing:20190502004945p:plain

©Project Revue Starlight

 あと、第七話の特徴として中庭のミロのヴィーナスが執拗にカメラに入ってくるという点があります。正直に申し上げると、僕自身はこれが何を象徴してるのか読み切れていません(笑)。なので誰かわかる人がいたら教えて頂きたいです。

f:id:neehing:20190502010447p:plain

©Project Revue Starlight

以下は僕の暫定的な思索(妄想)です。OP直前のこのカットでのセリフは、「この日、生まれたのです。舞台少女大場ななが」ですので、素直に読むとしたらミロのヴィーナスが大場ななをある意味で象徴しているのでしょうか。ミロのヴィーナスと言えばその体躯の美しさであり、しかも実は結構な長身ということもあって、大場ななと重なる部分も無くはないです。

では、ミロのヴィーナス=大場ななと仮定した場合、これは何を伝えようとしているのでしょうか。ミロのヴィーナスの最大の特徴は、その両腕の欠損です。この物語の中で腕の役割と言えば、スタァライトは星摘みの物語である以上、当然掴むという行為でしょう。つまり、腕が無い=何かを掴めないということの象徴かなと思うのです。

大場ななは何を掴めないのでしょうか?これは直感的にもわかる通り、彼女のきらめき=(スタァライト)でしょう。永遠の繰り返しの停滞の中にあっては、彼女が第99回聖翔祭のスタァライトで感じた「燃える宝石の様なきらめき」に辿り着くことはありません。それゆえに、大場ななは何度ループを繰り返しても充足されることはなく、「眩しいの…まだ」と言ってループを続行します。皮肉な話ですが、第99回聖翔祭のスタァライトの再演を繰り返し続ける限り、第99回聖翔祭のスタァライトには届かないのではないでしょうか。

七話冒頭の劇中劇において、唯一大場ななだけが腕を空に掲げてるのも、なんとなくこのミロのヴィーナスの腕論を支持してくれるような気がしませんか?

f:id:neehing:20190503030152p:plain

©Project Revue Starlight

いずれにせよ、あまりこの解釈は強い根拠があるものではないので、より良い読み方があればぜひご教授下さい。

ちなみにこのミロのヴィーナスは、舞台となっている津田塾大学の中庭に実在します。

全体的に神劇伴の多い本作品ですが、その中でも屈指の名曲はこの七話のループのところの曲でしょう。曲名はロンド・ロンド・ロンドですが、そのままループを示唆する名前になっているのですね。

 

第8話

 ひかりちゃんの過去が明らかになるこの話。ロンドンでレヴューに参加してひかりちゃんはきらめきを失うわけですが、そもそも何故彼女は負けたのでしょうか。

f:id:neehing:20190504005329p:plain

f:id:neehing:20190504005356p:plain

©Project Revue Starlight

この二枚のカットがヒントになります。とても矮小な存在であるひかりちゃんに対して、掴みかかる手はとても強大です。あえて同じ構図にしてあるということは、ジュディ(ロンドンでひかりちゃんに勝った人)は、本気を出せば天堂真矢を容易に倒せる大場なな並に強大な力を持っているということでしょう。と同時にこのカットが示唆することは、ひかりちゃんにとって大場ななとのレヴューは、敗北を喫したロンドンでのレヴューのやりなおしであって、このレヴューを制することが彼女のきらめきの再生産の必要条件であることが示唆されます。

さて、第8話のレヴューですが、タイトルは「孤独のレヴュー」です。個人的にはひかり・大場ななのペアのレヴューにこのタイトルを付けたのは天才的だとすら思います。なぜならば、「孤独」はこの両者に共通する主題であると同時に、レヴュー時点での二人を明確に分かつキーワードでもあるからです。孤独というテーマを軸に二人のコントラストが明確な、非常に印象深いレヴューとなっています。

神楽ひかりが背負っていた孤独とはなんでしょうか。それは、ロンドンで失ったきらめきを取り戻すため、聖翔音楽学園で華恋や他のクラスメイトを拒絶しながら一人孤独に戦っていたことです。残酷な結末を迎えるレヴューの本質を知っていたのも彼女一人だけです。

一方で、大場ななの孤独は、第99回のきらめきをもう一度手に入れるため、そして舞台少女たちを絶望から守るために一人孤独に永遠のループを繰り返していることです。ループを認識しているのが自分だけ…という状況の孤独が強烈なものであるということは、他のループもの作品を引き合いに出すまでもなく自明なことでしょう。

そして両者が孤独を選ぶ理由は、ひかりちゃんは華恋を守るため、大場ななはみんなを守るため、という要に「誰かを守るための孤独」という点も共通しています。

では、レヴュー時点での明確な二人の差異とは何でしょうか。それは、神楽ひかりは第4話で華恋と真に再開することで、孤独という主題を既に乗り越えていることです。圧倒的な力を持つ大場ななに対して、神楽ひかりはなぜ勝利することが出来るのか?と問われたら、「神楽ひかりは孤独を既に乗り越えたから」という回答になります。

この物語に通底する価値観として「再生産可能性」がある、ということは従前から申し上げていますが、ここに付随して通底する価値感として「一人より二人」というものがあります。この2つの価値観は、「再生産は一人で成し遂げるものではなく、他者との接触の中で起きる」という本作の描かれ方を鑑みれば、ある意味で不可分のものと考えられます。

そういった意味で、孤独=一人という主題を既に乗り越えた神楽ひかりが孤独を抱えた大場ななに勝利するのは物語に通底する価値観に肯定された必然であるということです。大場ななが孤独という主題を乗り越えるには、第9話のラストで星見純那が大場ななのやってきたことを全て受け止めながら彼女を再生産に導くシーンを迎えるまで待つ必要があります(詳しくは第9話のときに説明します)。

さて、このレヴューを経て神楽ひかりは再生産してしまう訳ですが、そこでこのアニメの物語は終わりません。第8話で3回にわたって強調されることがあります。

ジュディ(劇中劇のセリフ)「いつか、あの者と戦うことになっても」

キリン「いつか、あの子と戦うことになっても」

大場なな「いいの…?いつか、あの子と戦うことになっても」

第1話のところでも説明しましたが、少女歌劇レヴュースタァライトのアニメ全体の物語構造そのものが、劇中劇のスタァライトと重なる様になっています。即ち、第10話まではレヴューでクラスメイトたち=塔の女神たちを倒して塔の頂きに上る話なのです。ジュディ・キリン・ななのセリフは、もしこの物語がスタァライトの悲劇の通りであれば、その先では必然的に華恋とひかりが戦ってどちらかが落下する=きらめきを失うよ、という警告をしている訳です。

このアニメの過酷なところは、華恋・ひかりという主人公ペアが両方再生産が完了してもそこで終わりではないところですね。果たして二人はスタァライトの悲劇に打ち勝つことが出来るのか…という点に向かってこの先の物語は収束していくことになります。

 

あとこれは、友人から聞いてわかったのですが、物語の随所で出てくる逆さまの東京タワーは、タロットカードでいうところの「塔」の逆位置を表している様です。塔の逆位置の意味=再生であり、神楽のきらめきの象徴とのことです。なるほど!!

f:id:neehing:20190504023659p:plain

©Project Revue Starlight


続き

keibun.hatenadiary.jp

 

 

以 上

超読解・少女☆歌劇 レヴュースタァライト(第1話~第4話)

少女☆歌劇 レヴュースタァライトです。リアルタイム放送時には見ていなかったのですが、友人が強烈に視聴推奨していたことで興味を持ち、この度ストリーミングサービス(海外在住なのでHIDIVEという海外サイト)に課金して一気に視聴しました。

全体通じた感想としては、魅力的なキャラクター、丁寧な演出、説得的なストーリー、展開のテンポの良さ、隙の無いタイトな構成、劇中劇を用いた重層的な物語構造、美麗な劇伴、作り手のフェチズムすら感じるメカニクスの外連味、そして何よりも、圧倒的な熱量を持って描かれるレヴューシーン等々、褒めるべき点が無数に存在する極めて水準の高い質アニメであることは疑いようが無いです。

そんな本作を賞賛する感想記事や一般的な考察記事は既にたくさん存在していることと思いますので、この記事では、①物語の背後にある本質②アニメ上の象徴的演出の2点に軸を絞って、私が本作から"読んだ"ことを開陳していきたいと思います。

念のため今の私の状況を説明しておくとアニメシリーズ全12話を視聴完了しただけのにわかであり、舞台を含め他のメディア展開について触れていない状態です。なので、アニメ以外のソースの情報を用いれば即座に論破されてしまう考察も含まれているかもしれません。その場合はご愛敬ということで笑ってやって下さい。あと、そもそも私の妄想全開の解釈なので異論反論オブジェクションはたくさんあると思いますが許して下さい。

なお、各話ごとに分けて各論的にみていくという試みなので、長くなってしまうことを避けるために記事は3回に分けるつもりでいます。

 

(以下ではアニメのキャプチャ画像を載せていますが、著作権法32条1項と文化庁ガイドラインに鑑み、引用に該当すると考えて掲載を行っています。)

 

第1話

実は1話については言うことがあまりないのですが、二周目で見たときに一番グッとくるのはやはり第1話ではないでしょうか。特に東京タワーから落下する夢のシーンは二周目にみてようやく理解することが出来ます。

f:id:neehing:20190419022830p:plain

©Project Revue Starlight

ここで、この「落下」シーンに関連して、本作全体に通底する重層的な物語構造について語らせて下さい。本作の劇中劇として登場する「スタァライト」という歌劇のあらすじを簡単に説明すると、「二人の少女(クレール、フローラ)が星を摘もうとして女神たちを乗り越えて塔の頂上に到達するが、片方の少女が落下してしまう」悲劇です。いわずもがな、塔を登って星を摘もうとする二人の少女はひかり(記憶=きらめきを失ったクレール)と華恋(フローラ)に重なる訳ですが、この東京タワーからの落下の夢は、このままの華恋であればこの悲劇の通りになるという暗示になっている訳です。

この様な基本的な理解のもとで、アニメスタァライトの物語全体の構造を見てみると、第10話までは華恋とひかりがクラスメイトたちをレヴューで打ち破りながら、最後は天堂真矢・クロディーヌペアに打ち勝ち、華恋とひかりの二人でスタァに一番近いところまで辿り着きます。しかし、華恋はステージから落下してひかりはステージに幽閉されてしまう…。

この話、どこかで聞き覚えがありますよね。そのとおりで、要はアニメ第10までは何をやってるかというと、女神たち(クラスメイト)を打ち破って塔の頂きまで登るがフローラ(華恋)が落下してしまい二人の夢が叶わないという、まさに歌劇スタァライトそのものをやっているのです。ここで終わってしまっては悲劇のままなのですが、残り2話で二人がこの悲劇を乗り越えてハッピーエンドを迎えます。つまり、このアニメを一言で言うならば「華恋とひかりがスタァライトという悲劇に打ち勝つ」という話なのです。このように、劇中劇と物語全体が重層的に参照しあっているという構造が、このアニメの見事な点の一つです。

ちなみに、話は変わりますが、個人的に第1話を二周目に見てとにかくグッとくるのは大場ななのセリフですね。「大丈夫よ、華恋ちゃん頑丈だし」「全部わかってるわ、私には」 等々の言葉の意味が初見時とは変わってしまうわけですが、何が素晴らしいって、どのセリフも自然で全く伏線伏線していないのが良いのです。下手な脚本ならここでひっかかりのあるセリフを入れてしまって、「見えている伏線」にしてしまいがちなのですが、それが一切ないというバランス感覚が、このアニメの最高なところの一つです。

あと、セリフということにちなんで言うと、この物語において天堂真矢は基本的には端的に物事の本質を言い続けるので(まぁその分本人の心情描写は少な目なんですが…)、解釈に迷ったらとりあえず天堂さんの言うことを信じておけば大丈夫です。第1話で言えば、ひかりちゃんを評していう「でも…あの方、心が見えませんわ」というのはまさに一言でひかりちゃんの本質(心=情熱=きらめきを失っている)を表していますね。"情熱"のレヴューでひかりちゃんが星見純那に負けそうになってる理由もこの通りですね。

 

 

第2話

色々言いたいことはあるんですが、第1話書いた時点でクソ長いので要点を絞ります。

とりあえずレヴューについて考えていきましょう。これは本作に限った話ではないのですが、物語で2人が戦っている場合は、それぞれが何らかの相反する価値観あるいは命題を背負っていて、本質的にはそれら(テーゼとアンチテーゼ)の葛藤であると読むのが基本です。では、第2話のレヴューで華恋と純那は何の価値観を戦わせているのか、第2話のレヴューの本質とは何か。

実は、セリフで明確に言ってくれてるので割と簡単です。星見純那の「私はこのチャンスを逃さない。(中略)私の舞台を終わらせないために。」という言葉に対して華恋は「ノンノンだよ。一度で終わりじゃない。私たちは何度だって舞台に立てる」と言います。これはつまり、「一度失敗したら終わり」という星見純那の強迫観念と、「何度だってやり直すことが出来る」という華恋の主張が戦っているのが2話のレヴューの本質なのです。こういってしまうとなんてことない命題の様な感じがしますが、実は後者の命題はこの物語全体の主題とも関わる重要なものです。度々繰り返されるように本作品は「再生産」がテーマになっています。要は、一度失敗しても(堕落しても、きらめきを失っても)もう一度やり直せるのだ、ということですが、正に第2話で華恋が主張しているのはこの命題そのものなのです。

さて、この第2話のレヴューの妙味は何かというと、実は華恋のこの主張は第2話までの物語構造そのものに既に肯定されているのです。よく考えてみると、第1話で純那はイレギュラーとは言え華恋に敗北しているのに、第2話で再戦を許されているではないですか。このこと自体が、何度だってやり直せるということの証左になっているです。こういう構造上のトリックもこの話の面白いところですね。

さて、問題はこのシーン。象徴表現きた!という感じですね。

f:id:neehing:20190419022836p:plain

f:id:neehing:20190419024245p:plain

©Project Revue Starlight

象徴的な表現を多少知っている人ならばすぐにピンと来るのではないでしょうか。はい、どう考えてもカーテンにくるまれた暗い狭い空間=胎内ですね。そして、そこから結構な勢いで前転して出てくる(これもまたいいですね)は出生です。つまり、このシーンは星見純那の生まれ変わり=再生産を象徴的に表している表現なのです。なので、この"絵"を見ただけで、あぁ星見純那は華恋の命題を受け入れて変わったんだな、成長したんだなということがわかってしまう訳です。ゆえに、当然ながら生まれ変わった星見純那の言うセリフは「でも、これで終わりじゃないもんね」になる訳です。おまけに命題を受け入れただけでなく、人間としても華恋のことを受け入れます。2話の序盤では「私は(怠惰な)あなたとは違う」とまで言ってたのに、このラストシーンでは頬を赤らめながら「純那…でいいよ」ですよ。そしてステージ上の二人のロングショットからのパンアップで、星見純那の象徴であるメガネの向こうにはスタァライトが見えている…。

f:id:neehing:20190419022843p:plain

©Project Revue Starlight

はい、神回。二話目にして神回。最高過ぎるでしょ…。

あと、全く話は変わりますが、第二話で個人的に好きなのは大場なながひかりちゃんにバナナプリンを渡そうとするシーンでもの凄い逆光で大場ななが暗く描かれているところですね。

 

 

第3話

ちょっとすでに長くなり過ぎた上に第4話も語りたいことがあるので、第3話は簡潔に行きます。

まず冒頭のシーン。99期生の最初のスタァライトの上演ですね。天堂真矢の「二人の夢は叶わないのよ」というセリフで終わります。はっきり言ってしまえば、第3話の本質はこのシーンだけで終わりです(このアニメは最初の数十秒で主題がしっかりと提示される場合が多いです)。

はぁ?と思われそうなのでもう少し詳しく説明します。先ほどの第2話と同様にレヴューにおいて天堂真矢と華恋がそれぞれ何の命題を背負っているのか見てみましょう。これもまたセリフで明確に言ってるのですが、華恋のセリフである「スタァになるためだよ!ひかりちゃんと一緒に!」に対する天堂真矢のセリフは「舞台の上にスタァは一人」「あの子はささげた(I sacrificed that girl)」「あの子は切り捨てた(I discarded her)」「私は一人でもスターだ!」です。英語版の方がわかりやすいと思うのですが、「ささげた」と「切り捨てた」の主語はいずれも天堂真矢で、ささげられて切り捨てられたのはクロディーヌです。

要は、華恋の命題が「二人でスタァになる」であるのに対して、天堂真矢の命題は「スタァには一人しかなれない」なのです。ここに来て再度立ち現れるのが、劇中劇スタァライトとの重層的な構造です。要は天堂真矢の言っていることはスタァライトの悲劇そのものなのです。天堂真矢は基本的にあまり心の内が描かれることが少ないキャラクターなので妄想で補完するしかない部分なのですが、劇中劇との関係性を考えれば、本当はクロディーヌとともにスタァになりたいという気持ちがあるのではないでしょうか。しかし、競争で相手を蹴落としていくしかないという舞台の非情な現実を知っているからこそ、冒頭のシーンの様に「二人の夢は叶わないのよ」とスタァライトの悲劇的な結末を受けて入れてしまっている、というのが天堂真矢の本質だと思われます。

それに対して華恋の「二人でスタァになる」という命題はスタァライトの悲劇に打ち勝とうとする意志ではありますが、この第3話時点で天堂真矢の命題に敗北するのは必然的なことです。なので、冒頭申し上げた通り、第3話は一言で言えば「二人の夢は叶わないのよ」なのです。なぜ華恋の命題が敗北するかというと、華恋とひかりの二人の気持ちが通じ合っていないからです。それを表す様に、2話と3話でそれぞれ華恋がひかりを探すシークエンスと、ひかりが華恋を探すシークエンスがあるのですが、お互いを見つけることは出来ません。それが第4話でようやく華恋がひかりを見つけることが出来る…という風に繋がっていくのです。

 一つ付言すると、後ほど10話で説明するつもりですが、クロディーヌのセリフである「私は、負けてない」は重要です。私は二周目見るまで気付いていませんでしたが…。

 あと二周目みることで初めてなぜここで双葉とクロディーヌのペアに相互理解が生まれたのか…というのがわかります。まぁこれは後々やはり天堂真矢が二人の類似性に関する本質を語ってくれるからなのですが。

 

 

第4話

ひかりちゃんが華恋から逃げつつも探してもらうために自分の居場所のヒントを知らせてるというえげつないかまってちゃんぶりを発動する(最高)この回。この回の本質を一息で言うならば「これまで(華恋含む)クラスメイトの輪の外側にいたひかりちゃんが、初めてこちら側に足を踏み入れる」回です。

詳しく説明する前にまず前提として確認してほしいのは、第2、3話まででは、まだひかりちゃんがみんなの輪の中に入っていない、ということがしっかり描写されているということです。具体的には大場ななの「みんなで食べよう」という提案を拒絶したり、無理矢理華恋に中庭のテーブルに連れてこられても、すぐに去ってしまったりするシーンです。

さて、第四話の特徴としてあげられるのは、執拗なまでの橋の描写です。とにかくひかりちゃんと華恋が橋の上にいます。ゆえに私は個人的には第4話を橋の回と呼んでます。きましたねこれ、象徴表現です。

映画論的に言えば橋というのはかなり定番な暗喩です。要は、川という境界挟んで此岸と彼岸に分けられるので、橋はその両岸を結ぶ境界線上のものであり、橋を渡るというのは越境して此岸に到達する…ということのメタファーになっているのです。

では、それを踏まえた上で、橋の上にいるひかりちゃんは一体何と何の境界線上にいるのでしょうか?第4話全体の流れを踏まえて言えば、冒頭申し上げた通り、華恋含むクラスメイトの輪の内と外の境界線上です。時系列で見ていきましょう。

まずそもそも逃亡したひかりちゃんは境界線上にすらいなかったと考えられるのですが、華恋とメッセンジャーのやり取りを始めたところで、初めて境界線上にやってきます。

f:id:neehing:20190419022844p:plain

©Project Revue Starlight

そして、華恋と様々な話をしながらも、ずっと橋の上=境界線上を歩いています。

f:id:neehing:20190419022853p:plain

f:id:neehing:20190419024554p:plain

©Project Revue Starlight

(関係ないですけどシュタインズ・ゲートに死ぬほど出てきた秋葉原の橋もありますね。)

ここで重要なのは、ここまでではまだ一度もひかりちゃんが橋を渡り切る描写は無いということなのです。つまり、まだひかりちゃんはこちら側に辿り着いていないことになります。

一方で対照的なのは、橋をわたり切る華恋の描写です(下図参照)。これは、こちら側からあちら側(ひかりちゃんの側の世界=外側の世界)に軽々と越境して、ひかりちゃんを迎えに行こうとしてるわけです。

f:id:neehing:20190419024716p:plain

©Project Revue Starlight

そして、あちら側で華恋とひかりちゃんは真に再開して芝公園のシーンですね)、華恋がひかりちゃんを連れてこちら側に戻ってくるのがこのシーン(下図)。

f:id:neehing:20190419025031p:plain

©Project Revue Starlight

ラストシーンはやはり橋の上です。第4話を見たときに、なんでわざわざ橋の上でやってるのか、と思いませんでしたか?しかし、これまでみてきたとおり、象徴的な意味を踏まえればむしろこの流れではラストシーンが橋の上なのはもはや必然です。ここの橋こそが、一番重要なクラスメイトの輪の内側と外側の境界なのです。さらに、このシーンが素晴らしいのは、この橋をすっとわたり切るんじゃなくて、橋の上で一回立ち止まってクラスのみんなとやりとりが始まるところです。

f:id:neehing:20190419025442p:plain

©Project Revue Starlight

無断外出したことをかばってくれたクラスメイトたちが、一人ずつひかりちゃんに「おかえり」と言って暖かく迎えてくれる…。そして華恋に背中を押されて、初めてひかりちゃんは橋を渡り終える。ひかりちゃんが橋を渡り切る描写があるのはこのラストシーンだけです。ここで初めて、「あぁ、ひかりちゃんは越境を終えて、真にこのクラスのメンバーになったんだな…」と思わせてくれるわけです。

f:id:neehing:20190419025322p:plain

©Project Revue Starlight

はい、神回

 (どうでもいいですけどここは荻窪駅に続く道で環八との交差点近くの川なのですが、私は人生で1000回ぐらいこの橋を自転車で渡っているので、このシーンは感慨深いです。)

 

続き

keibun.hatenadiary.jp

I"s(桂正和)

長らくブログを放置してしまったのですが、リハビリがてら最近摂取した物語の感想を簡単にメモしておこうかと思います。今さら読んだのかという様な本ですが、桂正和のI"sです。

 

あらすじ

(前半)主人公の瀬戸くんがクラスメイトの伊織ちゃんに恋をする。瀬戸くんはいつも照れ隠しで伊織ちゃんに冷たく接してしまうが、なんだかんだ色々な事件を乗り越えて二人は結ばれる。(後半)伊織ちゃんが女優の夢を目指してアイドルデビューする。彼女が遠い存在になっていくことに焦る瀬戸くん。伊織ちゃんが忙しくなって擦れ違いも増え、破局してしまう。しかしなんだかんだあって二人の気持ちが通じあって、よりを戻してハッピーエンド。

良かった点

 桂正和の漫画は実は初めて読んだのですが、とりあえず女の子が可愛くてパンツがエロいというビジュアル面が素晴らしかったです。

内容に関して、まず前半で凄く感じたの良い点は、「伊織ちゃんが何を考えているのかわからないがゆえに、読者である自分も伊織ちゃんの一挙手一投足に一喜一憂してしまう」というところです。これは意図的にそうなってるのだと思うのですが、伊織ちゃんの心情が全く描かれないということと、「伊織ちゃんは演劇部だから、あのリアクションも本当は演技かもしれない」という巧妙な設定により、彼女の気持ちをヴェールの向こうに隠してしまっているからです。

これを00年代以降の男性向けラブコメとの比較してみるとどうでしょうか。00年代以降は、基本的にヒロインが主人公に恋心を寄せているということを、さまざまな記号を用いて読者には分からせてくれます。例えば、頬が染まる、ツンデレのテンプレセリフを吐く…等です。当の主人公は、「夕日が当たったせいか、(ヒロイン)の頬が赤く染まっていた」などというテンプレ化したモノローグをするだけで好意に気付かないのですが、読者はヒロインが主人公に惚れていることを知ることが出来るので、安心して物語を読むことが出来るのです。

翻って90年代ラブコメであるI"sは、伊織ちゃんが主人公のことをどう思っているのか本当に分からないのです。でも冷静になって考えてみれば、現実の恋愛ってそうでしょ。自分のことをどう思っているか分からない女の子のリアクションに一喜一憂し、あらゆる自分のアクションにはリスクが伴う…というのが本来あるべき恋愛の姿です。それによって傷つくこともあるかもしれない。でも、だからこそ恋が実ったときのカタルシスも大きい…。そんなことをこの漫画は追体験できます。実際、瀬戸君が告白して、伊織ちゃんが「片思いだと思ってた…」と言うシーンは、伊織ちゃん瀬戸君のこと好きだったのか!とある種の驚きすらありました。00年代以降の「主人公が惚れられてることは読者に対して保証済みの、痛みの無い優しい世界のラブコメ」が失ったものがここにあります。

また、後半部分のアイドルになった伊織ちゃんがどんどん遠くなっていってしまうことに対する瀬戸君の感情も、とても共感できるものでした。同じ立場になったときに恋人を信じ続けられるかは正直疑問に思います。自分より業界人とのプライベートな約束を優先されたり、俳優との恋愛報道があったり…。正直、全然会えなくて自分の知らない世界で何してるかわからない恋人よりも、その恋人に似た美少女でアパートの隣に住んでて自分に懐いてる女の子と付き合った方が瀬戸君は幸せなのでは?と思ってしまいました。実際、瀬戸君の心も揺れてしまうのですが、その心の揺れが十分説得的なのです。

この通り、後半は「遠くの恋人を信じる/信じない」というの二項対立が主題で、主人公は何とか「信じる」側に立ち続けるのですが、「信じた結果裏切られた人」というカウンター概念(=「信じない方がいい」)もきちんと登場するのが素晴らしいですね。それを目の当たりにした主人公は「信じる」「信じない」の二項対立を超えて、「行動する」というジンテーゼに到達します。要は軽いアウフヘーベンですね。そういった物語上の構成もよろしいと思います。

あと、恋人がアイドルになってしまう…という話の類型はいくらでもあると思うのですが、本作の場合はそれが記号化された描写というよりも、割と説得的な書かれかたをしています。そもそも物語の始まりが伊織ちゃんの水着グラビアからですし、伊織ちゃんが演劇部で演劇の夢を持って芸能界に進む…という流れが違和感なく描かれています。

 

悪かった点

まず、二人が付き合うまでの前半ですが、基本的には極度のツンデレ(作中では「逆走」と呼称される)である瀬戸君の暴走によって伊織ちゃんとの関係がこじれる…という話の構造が繰り返されるのですが、正直あまり瀬戸君の行動原理に共感できないというところがあります。いくらツンデレだとしてもそこまで伊織ちゃんに冷たく当たることはないでしょ…と思ってしまったり、あまりに好意の対象が色んな女の子にブレまくるというのもどうかなと思ってしまいました。それに対して、後半の伊織ちゃんと付き合って以降の彼の感情の動きには共感できるところが多いし、ほかの女の子に行ってしまいそうになるところも納得できます。

あと、不満が残るのは、二人が新入生歓迎委員になったときに、伊織ちゃんが二人の名前の頭文字のIをとってスケッチブックに「I"s」って書いて、「チームアイズの結成だね」と言うシーンがあるのですが、このスケッチブックがあまり生かされなかった点です。「このスケッチブック最後の方に再登場する激エモアイテムやん…」と感じてその後の展開を想像してすでに涙目になってしまったのですが、実際のところは結局スケッチブックはあまり描かれることなく最後の方でもチラっと登場されるだけであまりエモさを感じさせてくれなかったのが残念です。

ちなみに、先輩俳優のマンションに行った伊織ちゃんは結局先輩とセックスをしたのでしょうか? 「ラーメンを食べただけ」「マジで狙ったらイサイ(伊織ちゃんの劇団のトップ)に殺される」という先輩の発言からすると、セックスしていないということでいいのでしょうか?瀬戸君が信じたように、読者も信じろということでしょうか?

 

 以上

 

p.s. 予告

最近シュタインズ・ゲートに(今さら)ハマったので、シュタゲの超読解記事を近日中に書きます。

 

 

 

(日銀統計)家計保有の投信が30兆円少なかった件について

日銀が公表してきた資金循環統計が改訂され、家計保有の投信の残高が30兆円下方改訂されたことで、これまで「貯蓄から投資へ」という掛け声のもとで家計の投信へ投資が増加傾向にあると思われていたところが実は家計の投信残高がピークより減ってることが明らかになって話題になっています。

mainichi.jp

巷ではこれは安倍政権に忖度した結果なのではないかとか逆に安倍政権を陥れるための日銀の陰謀なのではないかといった憶測も流れていますが(?)、生粋のノンポリの自分としては単に技術的な問題の様にも思えます。

いずれにせよ、資金循環統計は非常に重要な統計の一つであり、自分も仕事でたまに使うこともあってちょっと気になったので、何が起きてるのか一次資料にあたって簡単に確認してみました。その内容を手元メモがてら記録しときます。

 

 細かい議論に入る前に、おおざっぱに何で30兆円減ったのかを一言でまとめます。要は「家計の投信残高は、世の中全体の投信残高から家計以外の保有額を差し引いて推計しているが、今回新たに推計しなおしたら家計以外(具体的にはゆうちょ銀行)の保有額が意外と多かったので、結果的に家計の残高は下方修正された」というものです。以下はより詳細な内容なので、興味のある方はご覧ください。

 ========

ここからは統計作成上の技術論に入るのでややマニアックです。資金循環統計は奇跡的とも思えるような情報量を持つ偉大な統計ですが、全ての数字が直接的に得られるわけではなく、様々な基礎データや仮定に基づいて推計によって得られている数字も多いのです(特に家計についてはほぼすべて推計でしょう)*1。その推計値がどうして変わったのか、今回の統計の改訂の背景を日銀公表資料から読み解いていきましょう。

以下の引用は資金循環統計の改定値の公表についてという日銀のリリースからです。

f:id:neehing:20180726050945p:plain

つまり、先ほど述べた通り、大づかみに言えば家計の投信の保有残高は、世の中に存在する投信の全体の残高*2から、金融機関、政府、事業会社、海外投資家といった家計以外の主体が保有している残高の額を差し引いた残りとして推計しているということですね。

f:id:neehing:20180726050952p:plain

上の文章によれば、今回の改訂においては、この家計以外の残高の推計を変えたということです。変えた点は2点です:①中小企業金融機関の推計を見直した、②ETFREITについて統計を新たに使うことにした。

②については東証の当該統計を確認すると30兆円と比べるとほとんど塵芥のようなオーダー(高々数十億円程度)なので無視していいでしょう。改訂の本丸は、①の中小企業金融機関の項目です。

中小企業金融機関とはなんじゃらほいという感じですが、日銀資金循環における定義は、信用金庫、信用組合労働金庫ゆうちょ銀行などが含まれています。毎日新聞でも指摘されている通り、今回の改訂ではゆうちょの投信保有残高を見直したものと思われます。見直した内容ですが、日銀公表資料によると「財務諸表において国内籍投資信託とみなすべき商品がより広範囲に及ぶことが判明したため、これを反映させた」とのことですが*3、要は、家計以外の残高に含むべきゆうちょの投信保有残高が思ってた以上に多かったということですね。確かに、ゆうちょの有価証券報告書を確認すると、投信の保有残高が39兆円となっていて、額のオーダーも符合します。

ここで、国内籍投資信託の定義を確認してみましょう(三菱UFJ信託のサイトから引用)。

外国の株式・債券等で運用する投信でも日本で設定されたものは「国内籍投信」 

外国籍投信 - 用語集

なるほど。ちなみに、有価証券報告書にも記述があるとおり、ゆうちょ銀行の保有する投信は、近年の国内の超低金利の影響もあって主に外国債券だということです。この二つの事実を組み合わせて名探偵コ〇ンくん並の推理力を働かせると、一つの仮説がひらめきます。真実はいつも一つ!

日銀アホ仮説:日銀が「ゆうちょの投信はほとんど外債の投信だから、国内籍投信じゃないよね!」と思っていた。

 否、天下の日銀様がそんなアホな間違いを犯していたとは思えないです。ので、恐らく何らかの別の理由があるのでしょう。

というかそもそも、ゆうちょ銀行の一般公開資料(有価証券報告書)だけでは、保有している投信が国内籍なのか外国籍なのかまではわかりません。ということは、これは憶測にすぎませんが、日銀はゆうちょ銀行(やほかの金融機関たち)からそうした詳細な内訳がわかる資料を追加的に入手しているか、あるいは何か別の方法で内訳を推計しているものと思われます。

今回の改訂にあたって起きたことは、「ゆうちょ銀行から新しく詳細な内訳データを入手したところ、今まで推計していた部分と実体が大きく乖離していた」か、あるいは「本当に日銀がこれまで何かを間違っていた」かのいずれかというのが実情ではないでしょうか。毎日新聞が報じている様に本当に日銀の誤計上でありミスであるのかは、公開情報だけではわかりませんね。

以上が今回の資金循環統計の改訂で起きていることです。

 

最後に、新しい資金循環統計のデータも本当に正しいのかについて検討していきましょう。統計に疑義が生じた場合は、他の統計と照らし合わせてお互いの整合性をチェックするのが常道ですので、今回は同じく日銀が家計にアンケートをとって作成している「家計の金融行動に関する世論調査」の一世帯当たりの投信保有残高(時価ベース)*4の時系列データをチェックしてみましょう。

f:id:neehing:20180726050315p:plain

こうしてみると、新しい資金循環統計は、アンケートベースの投信保有残高の推移と(少なくとも増え方のトレンドとしては)割と整合的であることがわかります*5。アンケートベースの調査の方も、旧資金循環統計のような急峻な伸びは示していません(改訂前の古い資金循環のデータが手に入らないのでグラフは書いてません。お手数ですが日経の記事等のグラフを参照してください)。

これだけをみると、家計の投信保有残高は思ったほどは増えてないというのが真の姿である可能性が高いように思われます。(本当は家計調査等のもっと固そうな統計と並べた方がいいのかもしれませんが面倒なのでやりませんので、興味のある方はお願いします。)

 

以上

 

P.S. 書いてて思いましたけど、日銀の話題だったらむしろ先日から話題になってる金利目標柔軟化に関する話題の方が重要でしたね!

*1:まあそもそも、全数調査を除くあらゆる統計が推計値なわけですが…。

*2:ただし、家計が保有しえないタイプの投信、例えば機関投資家向けの私募投信などは含んでません

*3:ここで、国内籍だろうが外国籍だろうが投信を保有してることには変わらないのに、なんで国籍が重要なんだろうという疑問がわきますが、「資金循環統計の作成方法」を読む限り、実は両者に関する家計の保有残高については別の方法で推計されている様です。考えてみれば当然で、ここでいう投信の全体というのは国内籍投信のみの残高なので、外国籍投信まで含めた残高を差し引きしてしまうと"引き過ぎ"なのです。ちなみに家計の外国籍投信の保有残高については、国際収支統計の対外金融資産残高等を用いて推計しているようです。

*4:調査票には「時価〈現在の相場〉で記入してください」とあるものの、「不明なら額面でもかまいません」との記述もあるので、どこまでちゃんと時価ベースになっているかは不明です。

*5:ただ、全体の合計額が合わないのはどうなんでしょうか…?日本の世帯数をざっくり5000万世帯とすると、5000万×70万円=35兆円で、資金循環統計の70兆円の半分しかないのですが。まあ、アンケート調査の方が投信保有額の大きい富裕層を取りこぼしてるということですかねえ。

愛について語ろう:「である愛」と「する愛」について

今日は愛について語ろうと思います。

 

結論から言うと、僕は愛は2つの極に分けられると考えています。すなわち、「である愛」「する愛」です。

 

まず、「する愛」とは、相手が何をするかに基づいて愛するかどうかを決める愛です。世の中の「愛」と呼ばれるものの多くはこれに該当します。例えば、付き合いたてのカップルがなどはそうです。彼らがお互いを愛し合う理由は、パートナーが自分を楽しませてくれるからとか、容姿が良いからといった機能面にあるのです。なので、もしそれらの機能が失われた場合は、愛することを止めることになります。このような「する愛」は、「機能の愛」や、「報酬の愛」、「条件付の愛」などと言い換えることも出来るでしょう。

 

一方で、「である愛」とは、愛する対象(ここでは、議論の簡単化のために人に限定します)が誰であるか、に基づき愛するかどうかを決める愛です。一番わかりやすい例は、家族関係です。息子が反抗しても、犯罪を犯しても、それでも彼が自分の息子であるというだけで愛し続ける母親の愛は、「である愛」だと言えます。言い換えるならば、「属性の愛」、「無償の愛」、「無条件の愛」などと呼べるでしょう。

 

さて、僕は愛(あるいは人間関係)の成熟過程というものは、「する愛」から「である愛」への移行であると考えています。家族関係など、初めから「である愛」関係性が存在する場合もありますが、多くの場合は「する愛」からの出発であると思います。それが、さまざまな体験をともに積み重ねて、無二の相手を無条件に愛する「である愛」へと成熟していくのです。

 

日本人F1レーサーに太田哲也という人物がいます。彼は日本一のフェラーリ乗りとして有名でしたが、レース中に多重クラッシュ事故に巻き込まれ生死の境をさまよいます。なんとか一命を取りとめた彼ですが、重度の熱傷で体は動かせない上、鏡をみたときに自分の顔に鼻がないことを知り、一時は自殺を試みたこともあったそうです。

そんな彼のリハビリ生活を支えたのは奥さんの献身的な看病でした。太田氏の奥さんは、変わり果てた夫のことを、「生きていてくれてさえいれば、それでいい」と、一生懸命支え続けたのです。奥さんも彼と出会った当初は、「レーサーとして大金を稼ぐ」、「性格が良く楽しませてくれる」、「好みの容姿をしている」といった「する」要素によって太田氏のことを愛するようになったのでしょう。しかし、彼が事故にあって、レーサーとして稼げなくなり、精神が錯乱し、容姿も酷いものになり果てて、そうしたあらゆる「する」を失っても、奥さんは彼を愛し続けたのです。これは、すでに二人の関係性が、時を積み重ねることで「する愛」から「である愛」になっていたと言えるのです。

 

愛、と言うと大げさに聞こえますが、これは友情関係や物事に対する愛着など、ほかの関係性にも当てはまります。例えば、十年来の友人がいたとします。昔はお互い一緒にいることが楽しかったとしても、長い月日を経て生活環境や価値観が変わっていき、もはやお互いに会うメリットがなくなるような場合もあるでしょう。もし、それでもなおお互いに友人であり続けようとするならば、そうした関係性は、すでに「する」の段階を超えて、「である」の関係性になっていると言えます。

 

もちろん、あらゆる関係性は「する愛」と「である愛」が入り混じったものであり、明確に両者に分類することは出来ません。しかしながら、こうした2つの極を念頭に置きながら、身の回りの人間関係を眺めてみるのも面白いのではないでしょうか。

 

以上

 

それでも僕が月ノ美兎を推す理由

インターネット上のブームに敏感な人ならご周知の通り、今年初めごろからバーチャルユーチューバーがだいぶ流行っている訳ですが、僕も流行りに乗って何人かのVtuberの動画や放送を聴いています。

その中でもある意味で際立っていると感じるのは、もはやかなりの大御所ですが、月ノ美兎でしょう。彼女は、「ムカデ人間」等のエログロサブカル作品に対する深い造詣や、実写クソゲーの実況といった独特なコンテンツチョイス、自分の過去に関する印象的なエピソードの数々など、中の人の個性の強さとトーク力の高さが相まって他のVtuberとは一線を画す存在感を放っている配信者です。

そんな月ノ美兎ですが、(未確定ではありますが)最近特定騒動があり、一部ファンの人々が離れる動きもあった模様です。

本件に関して、バーチャルユーチューバーと中の人を混同することの是非などの議論も非常に興味深いところではありますが、ここではそれは脇に置いておいて、これを機に、この記事では個人的に月ノ美兎を推したいと思っている理由を述べたいと思います。

 

もちろん、彼女を推す理由として、本人のコンテンツ力の高さというのは最も大きい項目ではありますが、それに加えて、僕が彼女の言動に関して特に印象的だと思っている点は、インターネットカルチャーに対するリスペクトと愛情を深く感じられることです。これが端的に表れているのは、下記動画の17:00頃からの語りです。

「例えば10年後ですよ、私がネットに姿を現さなくなったとしても、月ノ美兎ってそういえばいたよね…とかいう話を、たぶんね、一人ぐらいはしてくれると思ってるんですよ。私は、そういうネットの歴史のちっちゃな一部になれたことがとっても嬉しいです」

この言葉は、僕にとってはとても説得的で、彼女の本心から出たものだと感じました。そして、この発言の背景には、これまで彼女が体験してきたインターネット文化に対する愛情が強く感じられるのです。

彼女の語るインターネットの歴史は、WEBチャットやBBSといったコミュニケーションツールや、フラッシュ動画などが全盛期だった00年代的なものが中心です。これらの記憶は、同じく00年代をインターネットにどっぷり漬かって過ごした僕にとってはとてもノスタルジックで、(僕にとって)インターネットが本当に楽しかった時代を思い起こさせてくれるものです。

そうした文化を愛する彼女の気持ちはとても共感できるし、またその延長線上で、自分もインターネットカルチャーの歴史の一部になりたいという彼女の思いは、僕にとっては何とも応援したくなるものなのです。

(ただ、彼女は自分と同年代だと思っていたので、特定結果が真であるなら、予想以上に若くて驚いたというのが正直なところですが…)

 

というわけで僕は引き続き月ノ美兎を応援していきます。

 

以上