経済・文化評論室

エコノミストであり、物語を愛するヲタクでもある。

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い12巻と物語論

とりあえず最高。重要エピソード満載。わたもてにおいてこれ以上の巻が出せるのか?感があります。わたモテ読んだことない人は、6巻あたりからでもいいのでとりあえず一気に12巻まで読んでほしい。以下、感想等を、物語論を絡めつつメモ。

 

個人的にはわたもてにおいて重要なキャラクターは、根本陽菜(以下ネモ)と田村ゆり(以下ゆりちゃん)だと思っています。というのは、二人は主人公であるもこっちの影だからです。ここでいう影とは、主人公にあり得た別の自己実現の在り方です。主人公とは、基本的には物語で最も変化する人間のことであり、登場人物の重要度は物語においてどれだけ変化するかにおおよそ比例すると言ってよいです。そんな中で、主人公(あるいは登場人物)に最も大きな変化を与えるものは、主人公と影の相克、言い方を変えれば、自己に内在する対立する価値観との葛藤です。例えば、善悪二元論的な世界観では、善(主人公)が悪(影)を超克することで、主人公が成長するというパターンがあります。また、どちらが善・悪という明確な価値観があるわけではなく、互いの要素が弁証法的に止揚することで、お互いに成長をもたらすというパターンもあります。

主人公の影の典型的な例としては、ルークスカイウォーカーに対するダースベイダーがあげられます。父であるダースベイダーは、主人公のルークと遺伝子を共有するレベルで同じ背景を持つ存在であり、ルークにあり得たもう一つの自己実現の姿です。ルークはダースベイダーと相対したとき、自身もダークサイドに落ちつつあることに気付くわけですが、最後にはそれに打ち勝ちます(さらにはダースベイダーをアナキンスカイウォーカーに戻すという変化すら与えます)。この物語の構造は、一見するとダースベイダーとルークの戦いの様に見えますが、本質的にはルークの内側にあるダークサイドが、ダースベイダーという影として外部化されているのであって、実は主人公の自己のうちに内在する二つの価値観の相克なのです。

さて、話をわたもてに戻しましょう。ネモとゆりちゃんは、どういう意味においてもこっちの影なのでしょうか。まずネモです。ネモはアニメ好き声優を目指しているという、陰気なヲタク趣味という性質をもこっちと共有しています。しかし、ネモはそれをひた隠しにして、空気を読みながらリア充グループに所属しています。一方でもこっちは、周囲の目を意に介さないので、ヲタク趣味を隠していませんし、空気も読みません。その結果、ぼっちではあるものの、比較的自由気ままな高校生活を送っています。これでお分かりの通り、ヲタク趣味という共通項を持ちつつも、学校社会への適応の仕方という軸で二人は二項対立となっており、この意味においてネモはもこっちの影なのです。

では、ゆりちゃんはどうなのでしょうか。ゆりちゃんは社交性に乏しく、空気を読まないという意味でもこっちと共通項を持ちます。しかし、もこっちとの違いは、他者に対する心の開き方です。ストーリーを読み進めるとわかりますが、もこっちは何だかんだ言ってもオープンマインドです。他者に話しかけられれば、キョドりつつもそれなりに対応しようとします。しかしゆりちゃんは基本的には仲の良い友人以外には心を閉ざしており、他者に話しかけられてもそっけない対応しかしません。ゆりちゃんの方がより深刻なぼっちとして描かれています。これも、もこっちにあり得た、より深刻なぼっちとしてのもう一つの自己実現の姿といえるでしょう。

ただし、ここで注意したいのは、逆にみれば、ネモとゆりちゃんにとっては、もこっちこそが自己の影なのです(対称性)。彼らは、自分の影であるもこっちとの相克を経て、成長していきます。主人公のもこっちと自己⇔影の関係にある2人だからこそ、他のどのキャラクターよりも変化するのです。そして、冒頭述べた通り、登場人物の重要度は物語中どれだけ変化するかにおおよそ比例します。ゆえに、2人はもこっち以外では最も重要なキャラクターなのです(証明終)*1

 

さて、とりあえず以上の物語論をもとに12巻をみていきましょう。まず、ネモに関して、12巻で最も重要なエピソードは、3年生になったときの自己紹介のシーンでしょう。これこそ、主人公(もこっち)と影(ネモ)の価値観の相克そのものです。もこっちはネモに「黒木さんも普通の子になったんだね…」と挑発されて、新年度のクラス替え後の一発目の自己紹介で「彼氏募集中です」とふざけた発言をし、新しいクラスメートから奇異の視線を向けられます。しかし、これまで散々な目にあってきたもこっちは、周囲の目など意に介さない(実際はそれなりにダメージを受けていますが)というスキルを手に入れていたため、耐えることが出来ます。もこっち的な価値観が、自己をひた隠しにしつつ空気を読むというリア充的価値観に勝利した瞬間です。これを見たネモは、もこっちに圧倒され、「うまく演(や)るのはもういいか」と、自己紹介で自身の夢が声優になることをカミングアウトします。ネモの決定的な変化が描かれたアツいエピソードです(ネモについては作品全体を通して良いシーンが多いので、いつかまとめて記事にしたいです)。

 さて、他方でゆりちゃんはどうでしょうか。こちらの解釈は今のところネモの場合ほど明確ではありません。12巻においては、決定的な変化があるエピソードはありません。基本的には①もこっち(と吉田さん)と親密さが増してくる、という点と②先ほど述べたもこっちの影としての性質が浮彫になる、ように描かれているのが12巻でのゆりちゃんだと思います。①の変化は、基本的にはゆりちゃんにとって善い変化であることは間違いないと思います。しかしながら、もこっち・吉田さん(ともとから仲の良いガチレズさん)との親密さが増すにつれて②のような排他的な性質が際立ってくることも事実です。それを印象付ける重要なエピソードは焼肉回でしょう。なんだかんだでもこっちはリア充グループとそれなりに絡み、吉田さんもヤンキーで孤立してはいますが他のクラスメートと普通に話すことが出来ます。そんな中で、ゆりちゃんだけはそんな二人をみつめながら、ぼっちで無言を貫いています。主人公のもこっちと関わることで、ゆりちゃんはガチレズさん以外の友達を得るという①の変化を得ています。ゆりちゃんはそのまま、①の変化だけで終わるのか。あるいはさらに一段上の、排他的な性質を乗り越える日が来るのか(おそらくそれが描かれる際には、キバ子との対立の解消が重要なファクターになるでしょう)。今後の展開がとても楽しみです。

 

さて、ここまではネモとゆりちゃんという二人のキャラクターに注目して12巻を読んできました。そしてその枠組みとは別に僕の印象に残ったエピソードは、生徒会長の卒業です。まず、卒業生に別れの挨拶をしにいこうとする時点でもこっちの成長具合が凄いですね。しかし、生徒会長の周りには別れを惜しむ生徒たちが群がっていて、もこっちが「わたし以外にもっと話したい人がいるだろうし邪魔しないことにする」と言ってあきらめようとします。そのとき、吉田さんがもこっちの首根っこを掴んで生徒会長のところに連れていきます。細かいシーンですが、個人的にはこの時点でまずエモい。もこっち一人では突破できなかったことが、友達がいることで突破できるようになる。これも一つのもこっちの成長の成果です。吉田さん最高。そして、初めて自己紹介することでお互いの名前を知る。「最後にもう一度抱きしめとこうかな」といってもこっちを抱きしめる生徒会長。そして帰り道、もこっちは「もう一度」の意味に気付く…。この流れ、エモくないはずがない。また細かいところですが、泣いているもこっちに花粉症かと思ってティッシュを渡そうとするガチレズさんを制止している、"わかってる"ゆりちゃんも良いですね。わたもてはこういう細かい描写が良いです。生徒会長との別れの悲しさ。それはこれが、優しさを与えてくれた生徒会長との真の別れである点です。携帯やSNSがこれだけ発達した世の中で、誰かと真に別れることはめったにないです。仲のいいクラスメートとは、卒業後でもいくらでも会うことが出来ます。でも、もこっちと生徒会長の関係性はそうではありません。二人は(もちろん物理的に会うことは可能ですが、)もう一生会うことはないでしょう。現代社会においての別れは、物理的制約ではなく、関係性によって規定されるのです。

 

とりあえず12巻はわたもての頂点。

 

以上

*1:実は初期から設定されていたもこっちの影とも言えるキャラクターがいます。それはゆうちゃんです。中学時代もこっちと共に地味目の女子として生きていたゆうちゃんですが、高校デビューで一気にキラキラ女子になります。そうしたもこっちの影としてのゆうちゃんとの二項対立が初期わたモテでは描かれています。しかしこの二項対立は「モテるか/モテないか」という軸でしかないのに対して、ネモやゆりちゃんとの対立軸は、人間社会への関わり方に関するものであるので、後者の方が深いのです。まぁ、前者の対立軸はこの漫画のタイトル通りではあるのですが。