経済・文化評論室

エコノミストであり、物語を愛するヲタクでもある。

愛について語ろう:「である愛」と「する愛」について

今日は愛について語ろうと思います。

 

結論から言うと、僕は愛は2つの極に分けられると考えています。すなわち、「である愛」「する愛」です。

 

まず、「する愛」とは、相手が何をするかに基づいて愛するかどうかを決める愛です。世の中の「愛」と呼ばれるものの多くはこれに該当します。例えば、付き合いたてのカップルがなどはそうです。彼らがお互いを愛し合う理由は、パートナーが自分を楽しませてくれるからとか、容姿が良いからといった機能面にあるのです。なので、もしそれらの機能が失われた場合は、愛することを止めることになります。このような「する愛」は、「機能の愛」や、「報酬の愛」、「条件付の愛」などと言い換えることも出来るでしょう。

 

一方で、「である愛」とは、愛する対象(ここでは、議論の簡単化のために人に限定します)が誰であるか、に基づき愛するかどうかを決める愛です。一番わかりやすい例は、家族関係です。息子が反抗しても、犯罪を犯しても、それでも彼が自分の息子であるというだけで愛し続ける母親の愛は、「である愛」だと言えます。言い換えるならば、「属性の愛」、「無償の愛」、「無条件の愛」などと呼べるでしょう。

 

さて、僕は愛(あるいは人間関係)の成熟過程というものは、「する愛」から「である愛」への移行であると考えています。家族関係など、初めから「である愛」関係性が存在する場合もありますが、多くの場合は「する愛」からの出発であると思います。それが、さまざまな体験をともに積み重ねて、無二の相手を無条件に愛する「である愛」へと成熟していくのです。

 

日本人F1レーサーに太田哲也という人物がいます。彼は日本一のフェラーリ乗りとして有名でしたが、レース中に多重クラッシュ事故に巻き込まれ生死の境をさまよいます。なんとか一命を取りとめた彼ですが、重度の熱傷で体は動かせない上、鏡をみたときに自分の顔に鼻がないことを知り、一時は自殺を試みたこともあったそうです。

そんな彼のリハビリ生活を支えたのは奥さんの献身的な看病でした。太田氏の奥さんは、変わり果てた夫のことを、「生きていてくれてさえいれば、それでいい」と、一生懸命支え続けたのです。奥さんも彼と出会った当初は、「レーサーとして大金を稼ぐ」、「性格が良く楽しませてくれる」、「好みの容姿をしている」といった「する」要素によって太田氏のことを愛するようになったのでしょう。しかし、彼が事故にあって、レーサーとして稼げなくなり、精神が錯乱し、容姿も酷いものになり果てて、そうしたあらゆる「する」を失っても、奥さんは彼を愛し続けたのです。これは、すでに二人の関係性が、時を積み重ねることで「する愛」から「である愛」になっていたと言えるのです。

 

愛、と言うと大げさに聞こえますが、これは友情関係や物事に対する愛着など、ほかの関係性にも当てはまります。例えば、十年来の友人がいたとします。昔はお互い一緒にいることが楽しかったとしても、長い月日を経て生活環境や価値観が変わっていき、もはやお互いに会うメリットがなくなるような場合もあるでしょう。もし、それでもなおお互いに友人であり続けようとするならば、そうした関係性は、すでに「する」の段階を超えて、「である」の関係性になっていると言えます。

 

もちろん、あらゆる関係性は「する愛」と「である愛」が入り混じったものであり、明確に両者に分類することは出来ません。しかしながら、こうした2つの極を念頭に置きながら、身の回りの人間関係を眺めてみるのも面白いのではないでしょうか。

 

以上